そういえば、さっき浅野先生のブログにおもしろいことが書いてあるのを見つけました。
この夏あたりからブログを始めた連中が息切れしてきたようである。ブログの更新というのは、手間よりも常に自分の行動や思考を他人の目でみているかだと思う。
「常に自分の行動や思考を他人の目でみているか」。納得です。
この数カ月、余裕のない中でもなんとかブログを書き続けたのって、まさにこういう視点が僕自身にもあるからです。逆に忙しくて気持ちの余裕がないときだからこそ、自分の思考を客観視できるようアウトプットしておくことで自分のバランスを保っておこうという気持ちが強かった。忙しい分、内容はいつもに比べてアレでしたが、それでも息切れしないためには逆に走り続けるほうがラクだと思うんです。
現代は面倒を避けすぎています。面倒なことはまた、それをやると気持ちのいいことでもあります。面倒を避けると、気持ちよさも少し失います。
外から自分を見つめられる目を置くというのは、まぁ手間がかかるといえばそうだし、面倒といえば面倒なんですが、なんだかんだいっても結局ラクできるものです。まぁ、これは実際にやってる人にしか伝わらないかな。
感謝の気持ち
と、前置きが長くなりましたが、本題に。この数カ月、忙しく働いてきて、あらためて気づいたことがあります。
それは人のつくったものに対して感謝の気持ちをもつことの大切さです。
僕らの仕事は製品やサービスの使いやすさやわかりやすさに関わる仕事です。できたものがユーザーから見た場合、使いにくさがないか、わかりにくいところがないかを評価することも含まれます。
でもね、評価してわかりにくさや使いにくさがある製品も、それなりに作った側はいろいろ試行錯誤して作ってることが多いわけです(もちろん、適当な仕事もなかにはあると思いますが)。ユーザー視点に立って製品を作るという発想やそのための方法を知らないために、結果使いにくいところが多々あったとしても、無碍に酷評するのはどうかという気がやはりします。
もちろん、自分たちの製品が売れることだけを考えて作られたものなら、別にどうでもいいと思いますが、そんな風に作られた製品なんてめったにありません。それなりにどの製品も使ってくれる人に喜んでもらおうとして作られていると思います。それをこの製品はユーザビリティの問題があるなどと一刀両断するのはどうかしらと思うことが時々あります。それより先に作ってくれたことにありがとうと感じられる気持ちが持てたらと思うのです。
仕事に感謝する
その意味では、いまのユーザーって酷だなと思ったりもします。なまじユーザビリティなんて言葉を知っていると、やたらと使いにくいだの、わかりにくいだのと言ったりします。製品に限ったことではなくて、他人のブログや本に対してでもそう。わかりにくいだの、読みにくいだのと平気で口にする。でも、本当は、わかりにくさがあったとしても、わかろうと努力すればいいだけの話です。わからないのは読む側の問題でもあるのですから。それに無理に読まされているのでもなく、自主的に読もうと思ったのならそこに読むものがあることに感謝したほうが自分自身の精神的健康にとってもよいはずです。書いた側の立場に立つよりも、まず自分の立場で先にものを言おうとする姿勢が人としておかしい。自分と他人とのつながり、社会的つながりというのが見えていないのでしょう。
製品・道具の使い勝手に関しては、それとは違う問題がありますが、そうであってもちょっとしたことで使いにくいだのなんだのいうのはどうかと感じます。自分で選んで手に入れたのだから、むしろ、手に入ったことを感謝して使うことも大事なんじゃないかなと思い始めてます。ものに対する感謝の気持ちがもてなければ、他人の仕事に対する敬意ももてないのではないかと感じるからです。他人の仕事に感謝できなくなると、自分の仕事も外から客観的に評価できなくなると思う。はじめに書いたブログの話といっしょです。そうなると、仕事を続けるという意味が自分で見出せなくなったりするのではないでしょうか。
感謝とはほどとおい仕事
そうやって自分の仕事に対して外から見た目で評価できなくなると、仕事が雑になってしまいます。仕事が雑になれば、できてくるものの品質も下がります。とうぜん、買った人、使う人の評価は悪くなるでしょう。雑な仕事をただ回してるだけじゃ、できてくるものの価値は下がって、人びとに感謝されなくなります。売れればいい、または、給料をもらうためだけにする仕事。使う人の目ではなく上司の目を気にして仕事をすることが多いのではないでしょうか。あるいは技術やスキルを見せびらかすのが目的のような仕事。そこには他者を思う気持ちは欠けているか、二の次となってしまっています。そういう仕事の仕方が人に感謝されないものを大量に生みだしてしまっている大きな要因でしょう。
また、いいものを作るために勉強しようとしない、努力しない、自分の頭で考えようとしない。自分で勉強したり努力したりはまったくせず、ただ、やり方がわからないからといって利用者の立場に立ったデザインはしない。いまの現場では人間中心設計プロセスを導入するのはむずかしいから、とりあえず問題あるのはわかってもいまのまま続けるしかないということが、さも当然のように平然と口にしたり。
これって完全に悪循環じゃないでしょうか。
まわりを変えたければ、まず自分が変わらないといけない
自分の仕事は手抜きして、他人の仕事には感謝もせず、手にしたものに対しては無碍な評価だけを下す。それって、ユーザーとしても、働き手としても、客観的に仕事というもの、日々の行動や思考を見つめる視点が決定的に欠けているんじゃないかと思います。客観的に自分以外の人のことを見つめようとする姿勢が欠けています。格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会だ。
まさに客観的に自分とは違う世界を想像する力が欠けています。そして、違う世界を自分の世界の価値基準でだけ評価する。自分から見てダメだとダメ。ただ、それだけ。そのダメさが自分の側にも問題があるなんてことは露ほども考えたりはしません。
それじゃあ、だめです。まわりを変えたければ、まず自分が変わらないといけない。それには日々の暮らしのなかで、ちょっとずつ、ちょっとずつでも、他人の目から見て自分が変化してるなと感じてもらえるよう具体的な活動をしていかなくてはなりません。自分がどう思うかと同時に、他人にとってその活動はどんな意味を持ちうるかも同時に考えてみる姿勢が大切だと思います。そして、何より他人の仕事には批判よりもまず感謝の気持ちで接すること。これが欠けていては、建設的に仕事をしていくことはできません。自分の努力は拒むくせに、他人に努力を要求するようじゃ、いい仕事はできないでしょう。
悪循環を断ち切るためにも
よいものづくり、人に感謝され、大事にされるものづくりって、こういうところから見なおしていくしかないな、と。あの器に心がないと誰が云い得よう。もし人情の中で育てられないなら、その心は歪んでくる。(中略)沈んでゆく工藝の歴史を省みると、このことが著しく目に映る。そこには情愛の水が涸れきっている。器は愛なき世界に放たれているのだ。傭う者は、作る者への愛がなく、作る者は働くことへの愛がない。どうしてかかる場合に器に愛を持つことができよう。
これですよね、結局は。自分のことだけ考えるんじゃなくて、「人と喜びを分かつことのたのしさ」を感じられるようにならないといけないと思います。そこからしか協働作業というのは生まれてきません。ただ、自分のデスクのPCに向かっていたり、会議で机を隔てた相手と向き合って言葉でなんやかんや言ってるだけじゃ、何も生まれてきません。
そうではなく共に頭や体を使って何かを具体的に作りだす場を共有できる時間を増やさないといけません。互いに働く人に敬意をもって接するところにしか、建設的な協働作業の場も、人びとの暮らしに心の豊かさをもたらす創造的な仕事も生まれてこないのではないでしょうか。そして、実のところ、それができて人の気持ちを察せられるようになってこそ、本当の意味でユーザブルなものってできるんじゃないかな、と。
いくら人間中心設計だの、ユーザー中心のデザインだの言ってみても、基本となる姿勢がどんどん新商品を出さないと売れないとか、給料のために働いてるとかじゃ、ろくなものづくりはできないはずです。そんなことしてるから、まともなユーザーが育たないという面もあるんじゃないでしょうか。そういう悪循環はそろそろ断ち切る方向にシフトしていかないといけません。
僕らも単に方法論としての人間中心設計を教えるんじゃなくて、そもそものものづくりの姿勢からいっしょに正していかなくてはいけないのかなと思いました。
そう。大事なことは「手間よりも常に自分の行動や思考を他人の目でみているか」です。
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