無数に並んだ福袋からいかに必要なものを見つけてもらえるようにするか?

それ、正解。

タッチパネルが使いにくいのには原理的な理由があって、それは何となく、ボタンの位置も機能もプログラマブルに変わるってとこにあるんじゃないかと思っている

UIにおいて重要なのはそこ。あるべきところにあるべきものがないと人は混乱しやすい。また、そこにあるものが何かがフタを開けてみないとわからないようでは困ってしまう。プレビュー機能が意味をもつのもそういう点。

学習への適合性

ISO9241には、利用者が円滑に目的の操作ができるようにするためにシステム側が備えるべき要件として「対話の原則(ISO9241-10)」が提示されている。

  • 仕事への適合性
  • 自己記述性
  • 可制御性
  • 利用者の期待への一致
  • 誤りに対しての許容度
  • 個人化への適合性
  • 学習への適合性

プログラマブルにボタンの位置が変化するのは、このうちの「学習への適合性」に引っ掛かってくる。

テンキーやキーボードとかのデバイスはボタンのある位置はいつも一緒で、機能をソフトウェアで変えることもできるけども、入力のときには、この機能はこのキーというように頭の中で置き換えることができて、その位置はいつも一緒だ。

この頭の中での置き換えが成立するときにUIは使える。そして繰り返し使うものであれば見なくても身体が覚えてくれるようになっているものが望ましい。例えば、ブラインドタッチ。
もちろん、繰り返し行う操作でなければボタンの位置よりも、ディスプレイに表示された選択肢と利用者自身の目的との対応がより重要になる。対話の原則でいえば「可制御性」があてはまる。

誤操作の可能性は、一か八かどころではない

逆にタッチパネルでなくても、キーアサインされた機能がたびたび変わるようでは意味がない。位置がプログラマブルに変わらなくても、キーアサインされた機能が変わるのは従来のキー操作によるUIでもおなじ。特定のキーを押した際の挙動がいちいち場面によって変わっては、押すたびに不安になる。何が入っているかわからない福袋のようなもので、年に一度は買うかもしれないが、日々の買い物には向かない。

とはいえ、実際のUIデザインにおいては、実装する機能のほうが物理的なキーよりも多いことのほうが圧倒的に多い。必然的に1つのキーに対して、場面に応じて異なる機能をアサインしなくてはいけなくなる。
ここが物理的な仕組みで動く機械と異なるところ。アクセルとブレーキは間違うことはあっても、それは進むか止まるかしか間違える選択肢はない。一方でコンピュータで制御されたシステムでは間違う可能性は無限にある。誤操作の可能性は、一か八かどころではない。

部分情報問題

そこでメニュー選択式の操作や場面に応じて項目が変化するコンテキストメニューが必要になるが、そのラベルやメニューのグルーピングがうまくいっていないと、これまた福袋状態で開けてみないと何が起こるかわからない状況が発生する。しかも、選べる福袋がすべて目の前にあれば、まだよいが、福袋は別の売り場やフロアにもあるという。そのどこに正解があるのか見当もつかなければ途方にくれるしかない。

いわゆる完全情報問題に対する部分情報問題。



すべての要素を俯瞰できる状態で探索と、その一部の要素しか見えていないなかでの探索では後者のほうが圧倒的に不利になりやすい。

どんなに福袋を開ける行為が楽しかったとしても

結局、どの要素をどうパッケージングして適切なラベルをつけ、どのフロアのどの売り場に置くかが問題となる。そして、そのすべてがプログラマブルでデザインする側が任意に決めることが可能で、利用する側にとっては無限の自由さをもった無数の福袋の束のなかから自分が必要なものを見つけなくてはいけないところに、あらゆるUIの課題がある。

利用者にいかにスムーズに目的のものが入った福袋を探させるか。それにはどんな情報構造が必要で、どんなナビゲーション、どんなラベル、どんな操作体系が必要か。必要な要素を洗い出したのち、それを適切な形で分類し階層構造化し要素間の関係性を定義し優先順位づけをし目の流れに沿って配置し一目見て分類がわかるように視覚表現する。そうした作業を通じて適切な形態を見出すのに、これといって絶対解はない。失敗を繰り返しながらも決められた時間内で適切な解を見いだすしかない。

もちろん、最も重要なことは利用者が何を求めているのかを把握することだ。利用者が本当に必要にしているものが何かをわかっていなければ、利用者はすべての福袋を開けたあとで、自分がほしいものはここには置いていなかったという究極の不幸を味わうことになるだろう。それでは、どんなに福袋を開ける行為が楽しかったとしても、利用者はむくわれない。

なのに何故かUIをデザインする際の議論にそこはいつも欠けている。



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