本来と将来

昨日からなんとなくこのことが気になっています。

私たちは日本の「本来」と「将来」の両方にまたがって暮らしています。(中略)私は未来論というものをほとんど信用していないので、あえて「将来」という言葉を使うのですが、将来のためには「本来」がよく吟味されなければならないと考えてきました。

僕がいう、このことは、<将来のためには「本来」がよく吟味されなければならない>ということです。

生の始めに暗く/死の終わりに冥し

ただ、この「本来」というのは、決して確実な答えとして存在するものではない。むしろ知ろうとすればするほど、不確実なものとしての存在性を明らかにしてくる類いのものです。それゆえ、本来の自分探しのような活動は必ず泥沼化します。

そのことを理解するためには、松岡さんが『空海の夢』をはじめ様々な著書で引用している、次のような空海のことばを思い出すとよいでしょう。

生まれ生まれ生まれ生まれては生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
空海

始めも終わりもともに暗い/冥いのです。「本来」も「将来」もその暗さ/冥さのなかにあるのでしょう。そこは明らかに確実性によって整備された世界ではなく、不確実性が支配する世界です。

それもあって昨日は「わかること。それはガイドブックも道案内もない冒険の旅」というエントリーを書きました。「いま」というのは「本来」と「将来」の両方にまたがっている。「いま」目の前にあることだけを気にしているのは危険だと思います。迷いや不安を感じることを懼れて、目に見える確実なものだけを頼りにするのはよけいに危険なことだと思うのです。

「本来」と「将来」

僕は、よくデザインの現場における哲学-ヴィジョン-戦略あるいは活動計画の関係性を示すのに次のような図を描いてみせることがあります。



戦略あるいは活動計画、あるいは、またデザインそのものは、現状とあるべき姿=ヴィジョンのギャップを埋めることをミッション=目的とするものだと思います。人びとの現状の暮らしに問題を見つけ、それをどう変えるかのヴィジョンを見出したら、そのギャップを具体的にどう埋めるのかを考えるのがデザインであり、戦略です。

ただ、その場合、現状をどう見るか、どんなヴィジョンを描くか考えるのには、判断基準や思想が必要です。その判断基準や考え方の基盤となるのが哲学の役目です。
「将来」のヴィジョンを描くためには「本来」を思考する哲学が必要だと思うのです。ただ、この哲学なり、「本来」というものは、確実性のなかに答えを見いだそうとしても見つからないものです。根拠のある答えとして、それが見つかるなんてことはない。そうなると確実性ばかりに極度にこだわる人には一生見いだせないものということになります。実際、ビジネスの現場では確実性にこだわりすぎて、自分たちの哲学を明示できないことが非常に多いと思います。

覚悟、好奇心、問い続ける姿勢

では、そんな「本来」、哲学をどう見いだせばいいか。それには根拠や確実性ではなく、覚悟とあくなき好奇心、そして、自らの責任において考え続ける姿勢が必要だと思うのです。自分探しもこうした姿勢で取り組めば無意味なものではなくなります。いまの自分を作り上げているものは何か、自分はなぜこう考えるのか、そう問いを発しつづけ、確実な答えではなく、常にアウトプットを重ねてアップデートしていくのであれば、自分探しも無意味ではないと思います。

同じことがデザインをする上での哲学にも言えるのではないかと思うのです。覚悟、好奇心、問い続ける姿勢、そして、それらをもって行う実際の活動-アウトプットが結局、哲学を形作っていくのでしょう。最初は荒削りの信念もそうした真摯な活動を続けていくうちにすこしずつ洗練されていくのではないでしょうか。そして、そうやって形づくられた哲学が、現状の問題を把握する目を養い、将来のヴィジョンを描く力を与えてくれるのではないかと思います。

自己編集して解釈し咀嚼し分類し並列し階層化し組み立て壊してまた組み立てて悩み悔やんで苦労して

それは決して簡単なことではないし、何か指針となるレールがひかれた上を進めばよいような道のりではありません。ただ、自分で迷いながら不安を感じながら進むことこそが大切なんじゃないかと思います。その大切なものを守るためにこそ覚悟がいるのです。

私は「日本という方法」がわかりやすいほうがいいなどとは思いません。めんどうな手続きや微妙なルールがあったほうがずっといいだろうと思っている。いやしくも日本は国家であり海流であり、ブナであり少年少女たちであり、記憶でありニュースであり、制度であって面影です。それが安直に進むわけはなく、どんなことにも迷いが生じるはずなのです。それならどんなことにだって、醒めても胸が騒ぐのは当たり前。むしろ醒めもせず、夢もなく、胸騒ぎもなくなってしまうことのほうが危険です。

これは「日本という方法」についてのみ言えることではないと思います。僕らが将来を見つめるためにも必要なことだと思います。わかりやすいことがいいことだなんて僕も思わないし、めんどうな手続きめんどうな手続きや微妙なルールもあっていいと思います。とにかく安直さを求めたり、迷いが生じるのを嫌う姿勢をあらためなくてはいけないのではないでしょうか。

何か確実な答えが外から与えられるのを待ち、それに従って生きるのではなく、日々、自分自身で感じて受け取った情報を自己編集して解釈し咀嚼し分類し並列し階層化し組み立て壊してまた組み立てて悩み悔やんで苦労して活動した経験のなかで何かを掴んでいくことこそが大事なのではないでしょうか。先人たちが歩んだ過去の道のりを敬意を払って見つめ、まわりの人びとの仕事を称えつつ互いに切磋琢磨し、未来を予測するのではなく将来を自ら作ろうとする不断の意志をもち、日々生きることが必要なのではないでしょうか。

そうした答えが見つかるかどうかも定かではない日々の活動の先にこそ、本来の答え、そして、将来につながる答えを見出すための唯一の道が拓けているのではないかと思います。

 

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