前に「本を読んだり、他人の話を聞いただけで、何をわかろうというのですか?」というエントリーで、「どこがスタート地点で、なんとなくどっちの方向に、どんな風に進めばいいかの見当だけつけたら、あとは自分の足で崖から飛び降りてみない限りは、わかるはずもない」と書きましたが、そういうこと自体、よくわからない人が結構いるみたいです。どうも正しい答えがないことがあるというのが想像できないようなのです(困ったことに正しい答えを想定する人に限って、何が正しいのか、その基準を定義できていないんですよね)。
わかってあげる気持ちが自分自身を変える
でも、たとえば、人間を相手にした場合に、相手のことがわかるというときって、そこに何か決まった答えが想定されるわけじゃないですよね。いや、ある意味、答えは無数にあると考えていいし、逆にいえば答えなんてないといってもいい。相手のことなんて本当は永遠にわからない。それでも実際には、わかる瞬間って日常的には決してすくなくないですよね。その場合のわかるって答えを見つけたという感じではないんじゃないでしょうか。相手と接するうちになんとなくわかったという感じが生まれるんじゃないですか。
でも、それもわかろうとしなければわからないですよね。特に相手がわかってほしいことは、相手がそれをわかりやすく伝えたからってわかるわけではなくて、むしろ、自分の側がわかってあげるという気持ちをもって、わかってあげた状態にいかになるかが大切。それはマニュアルを見て機器の操作方法がわかるという場合の「わかる」とはぜんぜん違いますよね。
この場合のポイントは、基本的には相手のほうはわかってあげる前とわかってあげた後で変わらないということです。むしろ、変わるのはわかってあげた人のほう。わかってあげるというのは相手ではなくて、自分自身が変わることなんです。わかってあげる気持ちが自分自身を変えるのでしょうし、変わらない限りはわかりあうという相手とのつながりを築くことはできません。それぞれに自分の人生を担った人どうしがわかりあうというのは、そういうことだと思います。
佐治 あなたは宇宙のことをよく理解していらっしゃるんでしょうけれど、僕から言わせていただくと、宇宙のことを知るということは、宇宙のことをあなたが勉強して知ることによって、あなたの人生がどう変わったかということをもって、知る、ということなのです。あなたは生徒に、授業を通して彼らの人生をどのように変えられるかということを念頭において、地学の講義をしていますか?
わかろうとする気持ちで自分自身を変える
マーケティングで顧客を知ることも、人間中心設計でユーザーを理解することも、それとおんなじだと思うんです。顧客を知る、ユーザーを理解するというのは、何か決まった答え、真実を知るということでは決してありません。顧客でもユーザーでも相手が人間であるかぎり、個人間でわかりあうのと困難さは変わりません。そこに何か決まった答えがあることを想定してしまう姿勢が間違っています。しかし実際は顧客やユーザーを機械のように何か決まった機構で動いているかのように扱う人が結構います。
人間というのは自然の一部で、人工物のように正しい理解の仕方というのがもともとあるわけではありません。むしろ、見る人の姿勢によっていくらでも変わりうる存在。それが自然であり、人間という相手です。自然や人間に対して、何か特定の答えを期待しても無駄です。科学が自然を見るように、どう見るかという仮説が大切であって、その視点を持たずに何もわかるはずもないのです。
ペルソナでも何でも作成したペルソナが正しいかどうかなんて言ってる時点で間違っていて、ペルソナを作成することであなたが自身が変われたかどうかを問わなくては苦労してペルソナを作る意味なんてないんです。
わかるというのは答えのないものを自分なりに解釈すること
そして、ここでも個人間でわかりあうのと同様に、わかるためには相手を変えるのではなく自分自身が変わることでわかる必要があります。もし自分の殻に閉じこもって、自分の納得のいく答えだけを求めているなら、一生わかることはないでしょう。いや、これは何も人間や自然を相手にする場合に限ったことではないでしょう。何かをわかるというのは本来、自分自身で答えのないものを自分なりに解釈するということだと思います。自分自身の頭で考え、自分自身の経験から学んで、そこに答えを形作る。誰か他人が解釈し要約してくれたものを読んだり聞いたりして、わかった気になることが大事ではないのは「大事なことはわかることじゃない」でも書いたとおりです。人間なんてもともと機械的な手順を覚えるより、創造的に自分の考えを組み立てる方が得意なはずなのに、それができなくなってる人が増えてるというこの傾向はいったいなんなんでしょうね。
わかること。それはガイドブックも道案内もない冒険の旅
わかろうとすれば自分自身の新しい解釈を生み出せるよう、これまでの解釈から抜け出さないといけない。わかるためには自分の外にでないといけないのです。自分の外に出て自分を変えるような体験をしないといけません。それは小さな冒険です。ガイドブックも道案内もない冒険。それがフィールドワーク。本当の意味での調査じゃないでしょうか。量的にせよ質的にせよ、世の中を調べようとするときには、その根底に、日常を生きている人間が何をどのように調べようかと発想し、さまざまな違いを生きている人間を調べるという営みがある。すなわち、調べる私も含めた他者が普段から暮らしている日常への"まなざし"が基本にある。
何かそこに自分が想定している答えを探しに行くつもりなら、何も見つからないと思ったほうがいい。外の世界にあるのは僕らが変わるためのきっかけだけです。実際に変われるかどうかはそのきっかけを僕ら自身が活かせるかどうかにかかっています。そして、それをどう活かすかなんて方法は誰も教えてくれません。だから、冒険。誰かが決めてくれたプランに沿った旅しかできないなら、自然や人間をわかることはできないだろうなと思います。
「大事なことはわかることじゃない」。自分がいかに変わるか、変わり続けられるかではないでしょうか?
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