記録する専用の媒体があるのに、あえて肌に書いている.
それはなぜか.
この話を次のような2つのことを考えたんです。
- 身体の延長としての道具
- 道具の通常利用と異なる用途の発明
道具をつくる専門家(デザイナー)がつくる道具と、それを使う人自身が生みだす道具があるんだと思います。そして、大事なことは後者が生みだす道具はそれと同時に用途もいっしょに生み出されていることだと思います。
身体の延長としての道具
GAMANくんは「記録する専用の媒体があるのに、あえて肌に書いている」という専用の道具があるのを前提に考えていました。この前提をいったん破棄してみるとどうでしょう。世の中にまだそんなに多くの道具がない時代のことを想像してみるのです。
高い木の枝に果実がなっている。それを採りたくて背伸びをする。それで対象となる果実を採るという目標が達せられれば、それで終わり。その人は身ひとつで目標を達することができました。そこに道具が必要となる要素はありません。まさに道具には用がない。
でも、背伸びしただけでは届かなかったらどうでしょう。何かいい方法はないかと考えて近くを見渡してみるかもしれません。その人は近くに落ちていた適当な枝を手に取るでしょうか。そして、その枝を使って果実を落とすことを試みるかもしれません。あるいは適当な大きさの石を持ってきて、その上に乗って果実に手を伸ばすかもしれません。
枝や石は、そのとき、背伸びしただけでは届かない高い枝になった果実を採るための道具として利用されました。ただ、それは本来道具ではなく、偶然、そこにあった自然物です。その自然物を特定の目標をもった人がそのための作業用途のために利用しただけです。そこにあった自然物が身体の延長として、身ひとつではできなかった作業を可能にします。用途と物の関係がそこに生まれています。これを道具の原型とみましょう。
一回きりの行為であればそれで十分でしょう。でも、同じ目標が何度も繰り返し生じて、さらにそれが自分のためだけでなく、家族や同じ共同体に暮らす人々のための行為となったらどうでしょう。高い枝になっている果実をより確実に効率的に採ることが求められてくるでしょう。偶然適当な枝や石が落ちているのを期待することはもはやできません。すくなくとも、果物を採るため専用の枝や石を自前で所有しておいたほうがよさそうです。
でも、枝や石はとりあえずの作業には使えるとしても、確実に効率的に作業を完遂しようと考えると、なんとも心もとない道具です。よりその作業に適したものがあればよい。例えば、高いところに手が届くようにするためのハシゴや実をもぎとるのを楽にするハサミのようなものがあるといい。もちろん、自然物にそんな都合のよいものはありません。だとすれば、工夫してそれをつくるしかない。人工物の誕生です。人工物としての道具がそこに生まれます。
身体は偶然そこにあった自然物によって延長され、さらに人工的につくりだされた道具によってさらに延長されました。
「道具の用途は生活や仕事のなかに埋め込まれている」というエントリーで、人びとの生活や仕事のなかので役割とその役割が担うべき役目=作業、そして、その作業に紐づいた道具の用途の関係をみましたが、まさに道具は利用者自身の役割=身体によって行う作業用途を延長・拡大するためのものとして存在すると捉えることができるのではないでしょうか。
道具の通常利用と異なる用途の発明
もうひとつ「記録する専用の媒体があるのに、あえて肌に書いている」という言葉から感じたのは、人は物の用途を新たに発明することができるということです。先の枝や石も同じです。背中がかゆいので鉛筆で背中をかくのも同じだし、エスキモーが冷蔵庫を凍結防止庫として使うのも同じです。人工物としての道具は、道具をつくる専門家としてのデザイナーや職人が、人びとが生活や仕事のなかで行う作業のなかで必要とされる特定の用途を満たすものとしてつくられます。しかし、それを使う人びとは必ずしもデザイナーが意図した用途でのみ、それを利用するわけではなく、それ以外の用途でも勝手に利用方法を発明して使ったりもします。その意味では人工物も偶然そこにあった枝や石などの自然物と変わらない面もあります。
この発想は深澤直人さんのいう「ファウンド・オブジェクト(found object)」にも通じます。ある用途でデザインされた物の形が別の用途をアフォードする。それを逆転した発想として、特定の動きをアフォードするために、そうした動きを生じさせている別の道具の形態を借用する。それがファウンド・オブジェクトの基本的な考え方です。用途にあった形態を考えるのに、用途から直接発想するのではなく、別の物から物の形を発想してそれを用途につなげるのです。まさに「モノからモノが生まれる」。
純粋な機能面である道具を別の用途に使えば、利用者の工夫が特別のことのように感じられますが(例えば、冷蔵庫を凍結防止庫として使うエスキモーのように)、でも、機能的な用途ではなく装飾的な用途・感性面に訴えかける用途のデザイン面であれば、利用者がデザイナーの意図どおりにそれを用いないことなんてむしろ日常茶飯事です。
衣服やインテリアのコーディネイトなんかはデザイナーの意図など考えずに個々人が自分の感性で勝手に行いますし、装飾の意味の解釈、感じ方などはまったくといっていいほど作り手側のコントロールの外にあるものだといっていいでしょう。
物の用途は暮らしや社会に埋め込まれた意味=価値だと捉えることができますが、その意味=価値の伝達が作り手から使う人に正確に伝わるかどうかは、それが機能的なものか感性的なものかによってもだいぶ差がありますし、また、比較的正しく伝わることが多い機能面でみても、必ずしも作り手側の意図だけの用途で利用される可能性があることを理解しておくことは大事なことではないかと思います。
情報の3つのタイプ
ところで、先に道具は身体の延長だと書きました。では、道具は人間だけが作りだすものなのでしょうか。例えば、ビーバーがつくるダムはどうなのでしょう。鳥でも昆虫でも巣を作りますが、あれはなんなのでしょうか。それらの生物がつくる自然物ではない作物は、彼らにとって生きるための用途をもった道具であるとみることができないでしょうか(「ヒトが使う道具のデザイン:ドーキンスの「延長された表現型」」参照)。また、一方では動物にだって生きるためにしなくてはいけない作業はあります。獲物を狩ったり、子育てをしたり、毛繕いをしたり。それらの作業をほとんどの動物は身ひとつで行いますが、そこに"用"があるのは確かです。単にその"用"が自身の身体という一番身近な道具で満たせているから、道具の必要性が生まれない。それはすべての高い枝にある果実を身ひとつで採れる状態です。実際、サルやリスにとってはそれが可能です。道具、作業の用途ということを考えると、おそらくいくつかのタイプ分けができると僕は思っています。
ここでちょっと話が横道にずれますが、情報学を研究されている西垣通さんの3つの情報タイプの分類がこのことを考えるのに参考になります。西垣さんは、著書『情報学的転回―IT社会のゆくえ』のなかで、情報というものを「生物情報」「社会情報」「機械情報」の3タイプに分けて捉えることを提案しています。
最初の生物情報は、人間だけでなく動物も生きるために利用している情報です。身の危険を察し知したりアフォーダンスのようにそもそも行動を可能にするような情報(道が凸凹してるとか、この崖は急だとか)です。
次の社会情報は主に人間が利用する情報で、社会的に暮らすために用いるコミュニケーションのための情報です。相手の顔色から相手の気分を判断したり、異性が自分に好意を抱いているかを感じたりするために用いる情報です。
最後の機械情報は文字通り、機械が扱える情報、形式化が可能な情報です。マニュアル化、論理的な使用が可能な情報です。言葉の位置づけは、機械的な意味で捉えれば機械情報ですし、古代歌謡の呪的なことば(その社会は論理ではなく象徴で動く)になるとむしろ社会情報的な側面をもつと考えられるのではないかと思います。
道具の用途の3タイプ
この3タイプの分類を、僕は道具(自身の身体を含めた)の用途の分類にも用いることができるのではないかと思うのです。つまり、こうです。- 生物的道具:生物として生きるために必要な道具(衣食住のための基本的な用を満たすための道具)
- 社会的道具:人としての生きるための道具(社会的な仕事のための道具、まわりの人や環境との和をつくるための道具)
- 機械的道具:道具のための道具(道具を使うための道具、機械のための道具、生物や人が本来必要とする用以外のための道具)
もちろん、問題だなと感じるのは3つ目の「機械的道具」です。道具を使うための道具や機械のための道具は、間接的にであれ、その先に生物的道具や社会的道具としての道具や機械があるのなら、まぁ、それも必要だろうと思います。
ただ、このカテゴリーに分類できそうなもののなかには、人びとの暮らしとも仕事とも無縁の、デザイナー本位の役たたずの道具が少なからず含まれると思います。むしろ、それらの道具はまさにデザイナーが「こういうのを作りたい」という用を満たすためだけに作られたりするから、使う側には用がなかったりします。
用を置き去りにして、ただ物のみを作ってしまっている
人の用、人の身体の延長としての道具という発想が見事なほど抜け落ちてしまっています。わざわざ人間中心設計だとか、ユーザー中心のデザインなんてことをあたかも特別なことであるかのように言わなくてはいけないほどに。そして、そもそも用途の発見-道具の発明はデザイナーという専門家の専売特許ではなく、ノーマンがいうとおり「我々は皆デザイナー」であることを忘れて、デザイナーが生物としての自分、社会的存在としての自分であることさえ忘れて、ただ、物を作る機械と化してしまっているところに問題があるのだと思います。
まぁ、現実問題としては、デザイナーがそれを忘れているというよりも、直接デザインに関わらないマーケティング担当や営業担当など、人びとが使うことよりも自分たちが売ることを優先してしまう別の人びとがデザイナーが人びとのことを考えてデザインすることをできなくさせてしまっているのかもしれませんが。
我々は皆デザイナーだ。そうである必然性があるからだ。我々は自分の人生を生きていて、喜びも悲しみも、成功も失敗もある。人生を通して、自らを支えるために自分の世界を構築する。それぞれの機会、出会った人、訪れた場所、手に入れたモノは、特別な意味、特別な情動的感覚を引き起こす。これらは自分自身、自分の過去や未来への絆なのだ。何かから喜びが得られたとき、それが人生の一部となったとき、それとのインタラクションの仕方が社会や世界における自分の場所を決めるのに役立ったとき、それが好きになる。デザインはこの方程式の一部である。
人との絆のないものをデザインして生み出しても仕方がない。いや、それ以前に人の喜びや人生や社会・世界における自分の場所ということを感じることなく、ただ単に物をつくればいいという視点でのみデザインをしてしまう姿勢に問題があるのです。
マニュアルや論理でのみデザインしてしまうからいけないのです。自分自身の感性で感じた人びとのこと、環境のことを理屈で組み立てるのではなく、象徴化して生活や仕事のうえに位置づけないといけません。けれど実際は感性も象徴化の力も欠けた状態でデザインをしてしまっている人が多い。そして、そういう人に限って論理的に組み立てる力もない。そうして物はどんどん生きること、人を社会のなかに位置づけることからかけ離れさせてしまうのです。
人間の用をデザインする
きっと西垣さんのこの言葉における「情報」を道具に置き換えて考えてみるべきです。情報とは知識の断片のような実体ではなく、関係概念であり、人間のみならず生物にとっての意味作用なのです。
道具を単なる物としての実体としてのみ捉えるからおかしなことになるのでしょう。実体としての物をデザインするのだと考えるのではなく、まさに生物として社会的生物として生きる人間の用をデザインしているのだという視点を忘れてしまっては、ただ無用なゴミでしかない非道具を大量に生み出すだけになってしまうのではないでしょうか。
関連エントリー
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