疑うためにはまずは信じないと

いったんは信じてみないと疑うこともできませんよ。

白川静本人のスゴさは認めるけど、その業績すべてを妄信するのは危険。今から業績再評価が始まるんじゃない?

わからなくはないですが、でも、本当に業績再評価がはじまると思うなら、まず自分が率先してはじめなきゃいけないと思うんです。業績再評価を他人任せにしていても、いつまで経っても埒はあかないと思います(それはあとで説明)。

自分で再評価をはじめるには、最初から疑ってかかるよりはとりあえずその人が言っていることをまずはそのまま理解して、信じてみて、その上で自分でどこがおかしいかを考えていくのが正解なんじゃないかと僕は思います。
なので、最近の白川静さん関連エントリーは僕なりの「業績再評価」でもある。基本、僕のスタンスはとりあえずその人の言うことに従う。そして、それを信じていろいろ展開するなかで、矛盾が出はじめたら、それがその人の論の限界かどうかをあらためて問う。そうやって検証したほうが自分に納得がいく評価になると思うからです。

他人事じゃない。結局はどこかの時点で自分自身で評価しないといけない

結局、他人の評価を待っていても、それが役に立つかどうかはかなりあやしいと思うんですね。

というのも、仮に誰かが白川さんの業績を再評価したとしますよね。じゃあ、その評価自体が信じるに足るかはいったい誰が評価するのでしょうか。そう考えると、結局、どこかの時点で自分自身が評価を下さないといけないときがまわってくるんです。もちろん、そのためには評価を行えるだけの準備が自分自身にできていないといけません。であれば、僕なら最初から他人の評価を待つより、同時に自分でも評価の準備をはじめます。そのほうが手っ取り早いので。

それとも、最後まで自分自身での評価は回避して、多数決的におおぜいの意見を集約して、それで判断しますか?

寄合と呼ばれる村の会議は、全員一致の結論に達するまで何日も話し合ったことが、歴史や民俗学の資料でわかっている。多数決という方法は村にとっては、どうしても全員一致の意見に達することのできないときに取られた「いたしかたない方法」であって、決してほめられる事態ではないのである。

多数決というのはある意味では自分の力で判断することができない人たちが集まった場合の「いたしかたない方法」だと考えたほうがいいと思います。やはり白川静さん自身がそうしたように自分が疑問に感じることがあれば自分自身で何年もかけてじっくりその問題を問うべきなんだと思います。

絶対の真理はない。すべてその時点で一番うまい説明でしかない

それから、そもそも信じる信じないという場合に、なにか絶対的な真理みたいなものを想定してしまってはいけません。現在、ある問題をもっとも状況をうまく説明できるものをとりあえず真理と呼ぶのであって、ある説明を再評価しなくてはいけないのは、それが疑わしいからじゃなくて、まさにそれが現在の真理だからです。そして、やはり、その真理を疑うためには、それを信じたうえで、それ以上にうまい説明がありうるかを問わなくてはいけないのでしょう。

それを問う方法は2つ。
もっと他にうまい説明をしてる人を探すか、自分自身がそれ以上のうまい説明を考え出すかです。
いずれにしても、どちらがうまい説明かを検証するためには疑う対象をまず理解する必要があるのはいうまでもありません。何かを疑い、その疑いの正しさを証明しようとすれば、やはり一度は自分自身で疑う対象を、腹のなかに飲み込んでみるしかないんですね。

「罪を憎んで人を憎まず」のスタンス

あと、もう1点。たとえ、何かの論を疑う場合でも「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスが必要だと思うんです。別に論のどこかに間違いがあったことが明らかになったとしても、その人自体の仕事を全部否定したり、ましてやその人自体を否定する必要なんてどこにもないのですから。
安易に、疑う単位を人にしてしまうのはよくなくて、あくまでその人が実際に言った、書いた論を対象に批評の目を向けなくてはアンフェアです。それに人に対する好き嫌いと、論の正しい正しくないを評価する視点はちゃんと分けて捉えられる力をもたないといけないですしね。

先の例であれば、白川静という人を疑っても仕方がなく、白川静さんの論を疑い検証しなくては意味がないでしょう。そうではなく何十年も一心に研究を続けた方に向かって「今から業績再評価が始まるんじゃない?」なんて他人任せにたった一言言い放つのはあまりに非礼です。仮に論が間違ってもその仕事に傾けた情熱、努力は称賛に値するし、決して真似できないような凄みを感じさせるものですから。

その意味では、冒頭のコメントを書いた方にも別に敵意とかをもってるわけじゃないんです。とにかく、そういう風なスタンスで臨んでしまうともったいないと感じたんです。
あの発言で済ませてしまうには、あまりに白川静さんの学は偉大すぎるものだと思うし、そう言ってしませてしまうより騙されるつもりで読んでみても損はないと思ったから申し訳ないですが例としてあげさせてもらいました(そういうことなので、お気を悪くなさないでくださいね)。もちろん、白川静さんに限った話じゃなくて、もっと一般的に考えても、すでにある学問に対して最初から信用に足るかどうかと疑ってかかって、誰かが評価してくれるのを待つというのはもったいないと思うんです(まぁ、本当に興味がもてないのだったら、それはそれで仕方ないので無視するのはアリ)。

今ある仮説を疑う際の3つの注意点

そして、わざわざここでこれを書いたのは何も白川静さんを擁護したかったからでもありません。だって、別に僕がそんなことするまでもなく白川静のすごさはいまのところ認めざるをえないと思いますから。

そうではなく、これを書いた理由は、ここまで挙げたように以下の3つは大事なことだなと思ったからです。

  • 評価を他人任せにすることはできない。結局はどこかの時点で自分自身で評価しないといけないときがくる
  • 絶対の真理はない。すべてその時点で一番うまい説明でしかないと捉えないと大きく間違う可能性がある
  • 何かの論を疑う場合も、「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスが大事

明らかな嘘や間違いは別として、いったんは他人の論は騙されたと思って興味を示した方が結局は自分を磨くのには役に立つと思います。そのくらいの授業料は払わないと何の勉強にもならないのかな、と。

焦らず、じっくり、自分の直観と頭と体をつかった労力を信じてみることが、他人を疑うことより大事だということは、まさに白川静さんや先日紹介した『いまなぜ白洲正子なのか』の白洲正子さんから学べることです。

   

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