文は記号の総体である

文は文身(イレズミ)であり、字は幼名(アザ)であり、書は呪的な目的のもとに隠された呪文であったそうです。

文身は、出生・成人・死喪の際の通過儀礼として行われ、人の胸郭に朱色で記号を加えた形をもとに文という字が象形されているといいます。女性の場合は両乳をモチーフとしてその周囲に文身を加える。その字は奭あるいは爽。いずえも爽明の意をもつのだそうです。文も奭も爽も、霊界に入る人の聖化の方法として用いたイレズミを象形かつ象徴している字です。

人が生まれたときにも、やはりその額にしるしをつけ、邪霊が依り憑くのを祓い、転生の祖霊を迎えたといいます。それを象徴する字は、ひたいを象形する雁垂れの形の上に文をしるし、下に生を加えた産。成人のときに同じくひたいを象形する雁垂れの形の上に文をしるし、下に文彩を示す彡(さん)を加えたのが彦。その刺青を加えたひたいを顔というそうです。

他にも、名は上部は祭肉、下は祖廟に告げる祝詞をあらわす器の形。字は祖廟をあらわす垂れた屋根に、氏族の子が祖霊に謁見して、生育の可否を報告しその承認を受ける儀礼を示しているそうです。

文字と祭祀儀礼

このように本来文字を意味する、文、名、字などはすべて通過儀礼に関するものだと白川静さんは述べています。

このことは、文字がもとそのような儀礼を背景とし、その儀礼的実践をいわば字形的に映像化することによって生まれたものであることを、示唆するものであろう。象形とは単なる絵画的方法や模写を意味するものではない。象形文字はその形象の含む比喩的な表象の方法によること、つまりいつでも象徴的な表現であるというところに、その本質がある。
白川静『漢字百話』

これはすごい見方です。文字とその意味は、描かれる対象と描いた形象という従属的な関係ではなく、比喩的・象徴的関係にあるというのです。

別のところで、白川さんは、文字の象形は絵画的な具象ではなく抽象だといっていますが、それはそもそも儀礼を行うという行為と文字をしるすという行為が主従関係にあるのではなく、おなじく神や祖霊と交換する行為であるというところから来ています。単に儀礼を象形しているのではなく、儀礼をおこなうのと同様の目的で文字をしるすことで神や祖霊をコンタクトしているのです。
それはバーバラ・M・スタフォードが『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で書いている、以下のような力にも通じるものだと考えてよいのではないでしょうか。

要するにイメージというものは、情報を一度に小空間にディスプレーしながら、それをミニチュア化し、圧縮し、組み合わせる力を持っている訳である。


ことば、文字のもつ呪能

この発見はすごいと思います。
従来の記号学はソシュール言語学のようにシニフィエとシニフィアンという形で、記号とその対象を主従関係的にみていました。それに対して、白川さんの発見は文字のはじまりにおいては、儀礼と文字による象形が同等の意味をもつものであったことを明らかにしているのですから。
先の文や爽や産や彦にしても、文身をほどこされた身体や顔を示しているのではなく、あくまでそうした文身をおこなう通過儀礼そのものを示しているのです。それは唯物的な思考で対象に名づけるのとはまるで発想が異なります。

すべて名づけられたものはその実体をもつ。文字はこのようにして、実在の世界と不可分の関係において対応する。ことばの形式でなく、ことばの意味する実態そのものの表示にほかならない。
白川静『漢字百話』

また白川さんは「文は記号の総体である。内なるものが外にあらわれるものをいう」とも書いています。

とうぜん、そのような文字はそのはじまりにおいてことばを書き記すもの、ことばに従属するものではなかったわけです。ことばを発するのと文字をしるすのはやはりおなじ意味をもっていたわけで、その意味を白川さんは呪能という言葉で表現しています。ことばにも、文字にも、言霊がやどっていた、いや、言霊がやどらなければことばを口にしたり、文字をしるす意味がなかったのです。

このような意味において、ことば、文字を捉えると、イメージや象徴ということの意味、あるいは、物や実在というものが意味することがまったくいまの思考とは違うものになってきます。この思考の先にいまとは異なる知の体系や情報・コミュニケーション論の可能性があるのではないかと思います。

 

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