僕の紹介の仕方がつまらなそうに思わせてしまうのか、自分とは関係のない分野の話と決め込んでしまっている人が多いからなのか、あるいは、すでに皆さん読まれているからかわかりませんが、理由はどうあれ、まだ白川静さんに触れたことがない人はぜひどれでもいいので一冊読んでみることをおすすめします。
どれがいいか迷う人は『漢字―生い立ちとその背景』から読まれることをおすすめします。
この本に関しては、いま半分ほど読んだ『白川静 漢字の世界観』で、松岡正剛さんがこんな風に書いています。
文字のひとつずつを解明するだけでなく、文字がそのような形や音という根拠をもたざるをえなかった古代社会の祈りや恐怖や欲望や期待を解明することと、文字それぞれがことごとく不即不離になっているのです。その連携的な解読の中核に漢字マザーの発見がいくつもあったのです。そこが白川学のすごいところであり、私が1970年の『漢字』に衝撃をうけたところでした。松岡正剛『白川静 漢字の世界観』
そう。白川学は「すごい」んです。僕など、まだ3冊しか読んでないので、すでに書いた書評以上のことはいまの時点ではいえませんが、漢字の研究を通じて古代の中国および日本の祭祀、習俗、歌謡などの世界を浮かび上がらせてくれるのを読んでいると、その知の世界にどんどんのめりこんでいきます。
白川静という巨知を語ること
先の本の冒頭近くで松岡さんは「うまく話せるかどうか、とてもおぼつかない」とめずらしく慎重になっています。というのも松岡さんは「白川静という巨知を語ること」は、以下のことに値すると捉えてるからです。- 「文字が放つ世界観」を覗きこむこと
- 古代社会このかた「人間の観念や行為」をあからさまにすること
- 中国と日本をつなぐ「東洋思想の根底」をそうとうに深くめぐること
- 白川さんの研究人生そのものに貫通していた「気概と方法」に手や声や体をもって直截にふれること
まさにこれこそが「いまなぜ白川静なのか」と題したエントリーを書こうと思った理由に通じることですし、さらには「いまなぜ白川静なのか」そのものの答えだともいえると思っています。
難解にして、深甚
「白川さんの著作も白川さんの漢字世界観も、正直いって難解です。いや、深甚です」と松岡さんはいいます。けれど、続けて「その難解でありながらも深甚であるところがたまらなく魅力的で、かつそのように漢字のもつ世界観のことや、東洋の言語思想や日本の文字文化について語る白川静がほぼ一世紀にわたってありえたということが、最も白川的であることのメッセージだと私は思う」とも書いてらっしゃいます。これはまさにそのとおりだと感じます。白川さんの本には難解でありながらもじっくり読むことで魅力を感じる深さがあるのを感じます。その世界にどんどんのめり込ませてくれる魅力があります。
にもかかわらず、この数十年の日本に決定していたのは、そのように「白川的であろう」とすることでした。
何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題なのです。ですから、白川さんの本を読む、あるいはその研究を辿るということは、私たちにほぼ陥没して欠落してしまっているであろう「アジアの根本にひそむ深甚な世界観」にじかにふれるということであって、ということは、そのような白川的世界観を読むには難解な印象などものともせずに、白川さん同様に「東洋学≒日本学」に立ち向かってみるということなのです。松岡正剛『白川静 漢字の世界観』
「何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題」。本当にこれはどうにかしてほしいし、どうにかしないといけないと思います。わかりやすさがダメだというのではなく、わかるやすくなければ興味を示せない姿勢が問題だと思うのです。難解なものに腰を据えてじっくり関わっていこうという姿勢がとれないということが。
二相ではなく不二
僕の印象でいうと、アジアの世界観にふれるのが難解かつ深甚にならざるをえないのが、それが西洋のような還元主義や唯物的で分析的な思考をもたず、かつ、その結果生じてしまう要素がバラバラになって異分野間の連絡が通じないような事態に陥ることも回避できるような、統一的な視点をもっているからだと思っています。柳宗悦さんが『工藝の道』で書かれた言葉を引けば「二相ではなく不二」としてみる感覚が東洋に共通する感覚としてあり、そのややこしい不二という立場をとるからこそ難解にもなるし、深甚でもいられるのではないか、と。ジョン・ノイバウアーが『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』で描いてみせたような、ルルスの“解読の術”、ライプニッツの“数学的知の体系”を経て、シュレーゲルやノヴァーリス、マラルメに連なる西洋的な結合術(アルス・コンビナトリア)とは別の、不二による統合的な思想が東洋には元来存在していたのだと感じ、それこそが白川静さんが研究していた
「東洋学≒日本学」の先にあるものではないかと想像しているのです。そして、それはバラバラの情報を統合することができずに右往左往しているいまだからこそ必要な知ではないかと思うのです。
東洋的な結合の術に向けて
その意味では、最近紹介したばかりで同じく「結合術」をサブタイトルに含んだデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を読んだときの関心ともつながりますし、これも前に紹介済みのバーバラ・M・スタフォードが『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』、『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で取り上げているような問題(『ヴィジュアル・アナロジー』では「ライプニッツの存在論は美学と合して、個を、個を超えるものとハイパーリンクするところの、還元せず繋げるひとつの巨大プログラムを形づくっている」といった言及もある)にもつながっていきます。
そういう観点から、白川静さんの本は、特に情報デザイン、インタラクションデザインに関わる仕事をしている人にはぜひ読んでほしいと思っています。これがいまのインタラクティブ製品の問題を解決するための突破口に将来的につながっていく/つなげていかなくてはいけないはずのものであるから。西洋の物真似をがんばっても下手くそにしかできないくらいなら、東洋的な方法を生みだしてそこで勝負していかないとだめだろうと思うんです。そのためにもぜひ。
もちろん、それ以外の人でも言葉や文字、人間の思考や行為、そして社会におけるあり方などについて興味を持っている方にはおすすめです。とにかく読めば衝撃をうけるはずですので。
僕自身はいまは松岡さんの本と並行して、白川さんの『詩経―中国の古代歌謡』を読んでいますが、何を読むか迷っている方は先にも書いたとおり『漢字―生い立ちとその背景』をおすすめします。
ただ、やっぱり難解なのはちょっとと思う方は、はじめての白川学入門書として書かれた松岡さんの『白川静 漢字の世界観』から読むか、梅原猛さんとの対談形式なので読みやすい『呪の思想―神と人との間』から読まれてみてはいかがでしょうか。
関連エントリー
- 初期万葉論/白川静
- 漢字―生い立ちとその背景/白川静
- 呪の思想―神と人との間/白川静、梅原猛
- ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識/バーバラ・M・スタフォード:
- グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ/バーバラ・M・スタフォード
- ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ
この記事へのコメント
平田睦
宮城谷昌光さんの小説をよく読んでるのですが、そこでもよく「白川静」さんの名前と「字統」という作品名が登場します。漢字本来の意味や使い方、解釈、成り立ちなどは非常に面白いし、興味深い世界です。次は白川先生の本を読んでみようと思います。
knz
彼が大学にいる間、彼のメソッドはひたすらトレーシングペーパーで文字をなぞりつづけたそうです。
50年間なぞりつづけついに全てを理解したと、ご本人から聞いた事があります。
日本が世界に誇れる数少ない素晴らしい学者でしたね。
久しぶりにとても嬉しい気持ちになりました。エントリ有難うございます。
ちなみに私はこのサイトの隠れファンなのですが、奥出さんも私の良く知る人なので何かご縁があるのかな?とびっくりしました。
tanahashi
>平田睦さん、
漢字本来の成り立ち、そして、文字が当初もっていた存在意義についての、白川さんの考察は本当に驚きます。ぜひ、読んでみてください。
>kntさん、
隠れファン。ありがとうございます。
僕もトレーシングペーパーでなぞるというメソッド、そしてそれを通じて「すべて理解した」ということを知って、なるほど、やっぱりそうかと思うと同時に、あらためて白川さんのすごさを感じました。
そういう身体を使ってじっくりひとつのことの探求に打ち込むという現代ではほとんど行われないやり方によって、白川さんが「日本が世界に誇れる数少ない素晴らしい学者」なったことの意味を、もっとみんなが真剣に考えたほうがよいと思うのです。
それこそ、失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?ですね
http://gitanez.seesaa.net/article/108801751.html