松岡正剛さんは別格だとしても、すこし前の高山宏さんもそうだし、割と最近では田中優子さんもそうでした。そして、いまは白川静さんのサイクルに入っていて、『初期万葉論』と『漢字―生い立ちとその背景』に続いて、梅原猛さんとの対談である『呪の思想―神と人との間』を読みました。
対談当時、白川静91歳、梅原猛76歳というからそれだけですごい。しかも、お二人ともこんな素敵なお顔をしてます。
91歳+76歳に蓄積された知識の深みは感嘆するばかりです。さらに対談ですから読みやすく、ほかの白川さんの著作に比べたらはるかに読みやすく、はじめて読む方にもおすすめ(もう1冊入門書としては最近出たばかりの松岡正剛さんによる新書『白川静 漢字の世界観』なんてのもあります。当然、僕も買いました)。
訓読みを発明したのは百済人
さて、この本の内容ですが、梅原猛さんの問いに白川静さんが答えるという形で、漢字の話、孔子の話、詩経の話というように話題が進んでいきます。話題の舞台は多くは白川さんの専門の古代の中国で、そこに梅原さんが専門の古代の日本の話がまぎれこんだりします。いずれも本のタイトル通り、ともに呪的なもので政治が社会が人間が動いていた時代です。先日紹介したばかりの『漢字―生い立ちとその背景』でも文字が生まれるためには絶対王朝が必要だと書かれていましたが、ここでも、白川さんは、
白川 日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来なければ、文字は生まれて来ない。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
と言っています。
そして、漢字が日本に入ってきてから、いまのような訓読みが生まれたのは、日本人が工夫してそうしたのではなく、
白川 本当の訓読みを発明したのは、僕は百済人だと思う。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
と、当時日本に住んで「史(ふひと)」として文章に関することをやっていた百済人が、日本以外ではどこの国にもない訓読みを日本語に漢字を適合させる方法として折衷的に生み出したと白川さんは考えているんですね。
こういうおもしろい話が本の随所に出てくる。読みはじめたらどんどん読めちゃいます。
祝詞を入れた器から
で、やっぱり興味をひくのが漢字の話です。呪の思想におおわれた殷の時代にできた字ですから、それが象形するものもほとんどが呪的なものなんですね。例えば、祝詞を入れた器をあらわす口に似たサイという文字。これが元々はホコをあらわす「才」ともう1つの
ホコをあらわす「戈」がいっしょになった、載や裁から車や衣をとった部分から生まれているというんです。これはすべてのもののはじめを意味する文字なんだそうです。
下の写真の右ページの真ん中あたりにこの文字から、祝詞を入れた器をあらわす文字が生まれているのが示されています。
そして、この祝詞を入れた器をあらわす文字に蓋や針を加えて「吉」「吾」「古」「害」「舎」の字が生まれています。「吉」は器のうえにマサカリを置いて守る意味。「古」は同じく器の上にたて(十)を置いて永く守る意味だそうです。おもしろいところでは耳の大きな人のかたわらに器をおけば「聖」、神がかった巫女が髪を振り乱して器を抱えて舞う姿が「若」なのだそうです。そもそ
もこの「器」という文字が祝詞を入れた器を清める犬牲をしたことから生まれた字であることは「漢字―生い立ちとその背景/白川静」でも紹介済みです。
神へ問う意味の「言」と神が答える意味の「音」の2つの文字の対称性もおもしろい。ともに器にハリ(辛)を指した象形で、一方の「言」は器が空で、「音」は器のなかに神の意が入っている(神が音連れてるわけです)。器にハリは「害」もおなじで、ただ、こっちは取っ手付きのハリで器を破壊していることの象形なんだそうです。
さらに先の「才」のほうからは「存(才の下に産子)」「在(才の下に土饅頭)」が、「戈」からは「戯(戈が虎を打つ形)」がそれぞれ生じています。
詩は歌われ、神話は語られた
これらすべてが神と人との交信の儀礼などを示す呪的な行為を象形化しているんですね。王もまた神と交信することを示すことで絶対王となる。だからこそ、「日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったから」になるんですね。中国には絶対王になる環境的必然があったのに対して、日本の氏神にはその必要性がなかったということなのでしょう。梅原 ところが詩が歌うことを離れ、音読することを離れ、だんだん目で見るだけのものになってきた。現代詩の衰退は、そういうところにあると思っています。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
呪的な世界において何より詩は歌われ、神話は語られたのです。それがことばを離れ、文字のみを見るようになると呪的な社会は合理的な社会へと移っていく。『初期万葉論』でも『漢字―生い立ちとその背景』でも語られていたことです。きっと文学というのは本来こういう場所に立って考えるべきものなんでしょう。
最近はこのあたりの話が非常に興味深く感じられます。
と、この本があまりにおもしろかったので、今度は梅原猛さんの『隠された十字架―法隆寺論』を読み始めました。
こうやって、どんどん読みたい本がつながっていくんです。
あっ、そういえばこのブログ、ちょうど3年前の11月18日にはじめたんだった。祝3周年。早いもので4年目に突入です。
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