学校でも企業でも当然のように用いられるこれらの言葉は果たして本当に正しいか? 最近、そのことに大きな疑問を感じています。
「質の劣化と文脈からの逸脱」で書いたように、歴史的には時代が下れば下るほど、ものつくりの技術は質的に劣化し、かつて可能であった品質をあとの時代には再現できなくなります。いまに生きる人たちはこのことに無頓着ですが、すこしでも関心をもって歴史上の制作物を振り返る目をもった人であればその差は歴然としています。
過去の技術の伝承・維持、あるいは個人意識の孤立を回避するには
なぜ過去にあった質を維持する技術の伝承ができないのか?それは白川静さんが『初期万葉論』や『漢字―生い立ちとその背景』で、田中優子さんが『カムイ伝講義』で描いてくれているような社会のしくみの変化、それにともなう人間の内面の変化、徐々に距離感ができ遠ざかる人間と自然との関係、そして、経済文化の変化にともなう働き方の変化や働くことの思想の変化が、生産の単位や消費の単位を今日までに徐々に個人化してしまったことにあるのでしょう。
今日美術と呼ばれるものは皆Homo-centric「人間中心」の所産である。だが工藝はそうではない。そうでないがために卑下せられた。しかしそうでないが故に讃美される日は来ないであろうか。工藝はこれに対しNature-centric「自然中心」の所産である。ちょうど宗教がTheo-centric「神中心」の世界に現れるのと同じである。柳宗悦『工藝の道』
20年ごとに行われる(伊勢)神宮の式年遷宮は、神宮そのものの維持であると同時に、それを建造する技術の維持でもあるといいます。職人は人生のなかで大体3度の式年遷宮に立ち会うことができ、一度目ははじめてその場に関わる見習いとして、2度目は経験をもった職人として作業の中核を担い、最後の3度目ははじめて作業に立ち会う職人のために技術だけでなく式年遷宮のしきたりも伝承する役割として、その場に立ち会うことになるといいます。とうぜん、それが20年ごとに行われるよう維持するためには技術そのものだけでなく、式年遷宮という儀礼そのものの価値を損なわず維持できるよう社会的、経済文化的な維持も必要になってきます。神と人との関係とともに、そこで使われる建材となる自然との関係も維持しなくてはいけません。
そこには個人がどうの、新しい技術や個性がどうのという価値観はまったく存在しません。新しいものを生み出すことばかりに熱心で、ものを長く使うことだけでなく、技術や社会の価値観そのものを維持していこうという姿勢を著しく欠いた現代の経済文化的、社会的価値観とはまったく異なるものがあります。
個性中心の見方からして、工藝の美が等閑にされたのも無理はない。否、高き工藝は、美術的であらねばならぬとさえ考えられた。柳宗悦『工藝の道』
これが現代主流となっている風潮です。そこではものつくりの技術が時とともに劣化していくだけではなく、社会のしくみそのものが次第に劣化し、人間は神からも自然からも隣人や家族からも距離をもった孤独な存在となっていきます。そして、さらには自分の身体や自分の感性からも孤立化した孤独な意識だけになって生きる力を失っていく。
学校でも、企業でも「自分で考えろ」と言われ、個性や個人力を磨くことばかりを説かれるだけで、依ってかかる社会や経済文化の価値観や思想を示されることはない。果たしてこれが本当に正しい道なのだろうか?
なぜ工藝なのか?
柳宗悦さんの『工藝の道』に関しては、これまでも「正しき工藝の11の法則」や「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」をはじめ、「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない」、「勤労・勤勉が可能な社会」、「失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?」などのエントリーですでに何度も取り上げてきましたが、このあたりで一度しっかりまとめておきたいと思います。日本民藝運動を興した柳宗悦さんはご存じの方はいると思いますが、著名な工業デザイナーである柳宗理さんの父親にあたる方です。この『工藝の道』は柳宗悦さんが日本民藝運動をはじめるにあたって最初に工藝のもつ価値を記した一冊にあたるものです。
知られているように、柳宗悦さんは全国をまわって自分の直観にひびくよき工藝品の収集を行い、その成果を日本民藝館に結実させています。その一方でなぜ自分たちが工藝に価値を見出し、日本民藝運動を行っているのかに対するアカウンタビリティの義務もしっかりと多くの著作を通じて果たしています。
私は私自身をここに主張するのではなく、よき作品が示す工藝の意義を、そのまま忠実に伝えたいと思うのである。
この問題が投げる抛物線は広くかつ深い。美に結合し、生活に参与し、経済に関連し、思想に当面する。工藝が精神と物質との結合せる一文化現象として、将来異常な学的注意を集めてくることは疑いない。柳宗悦『工藝の道』
ここに書き記されているように、柳さんは工藝に単なる美を見ているのではなく、生活への参与、経済との関わり、思想への直面をみています。それは上に書いたような白川静さんや田中優子さんの問題系にも関わりますし、『ふすま―文化のランドスケープ』の表具師・向井一太郎さん、『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』の法隆寺棟梁・西岡常一さんのような職人の技術と生活・信仰に関する価値観や、『お能・老木の花』に所収された「梅若実聞書」で白洲正子さんが聞き語りをしてくれている能楽師・二代目梅若実さんの言葉(「言いがたいところの智慧」)にも感じられるものです。
ものつくりの射程
ものをつくるための思考や技術は、単に生活のための必要品をつくるということだけでなく、社会や文化のなかで自分はどういう立場にあるのかを学び、制作をする際や素材を入手する際に自然の材から自然のもつ力を学び、自分の力だけではどうにもできないこと、自然や過去の人びとの努力やまわりの人との協力によって成し得ることの力を学ぶという「広くかつ深い」抛物線のなかにあるものととらえなくては単なるものつくりの話として軽くあしらって終わりになるかもしれません。しかし、そう考えるのは、ものつくりが人びとの生活に関わるものであること、経済文化や社会と関わること、ものをつくることと自然との関わり、そして、ものをつくったりものを使うことがどれだけ人間の認知や思考に影響を与えるかというつながりを見捨てて、自分本位な狭いものつくりの視点でそれを捉えてしまっているからにすぎません。
されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。
ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。(中略)用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。
初代の茶器に見られる雅韻は、いかにそれが多量に迅速に作られた民衆的作品であったかを語る。茶器はその中から選んだわずかなものに過ぎぬと云う人もあろうが、しかし多量につくられる品でなくば、選ぶということもできないであろう。茶器の美は「多」の美である。
人々は美しい作を余暇の賜物と思ってはならぬ。休む暇もなく働かずしてどうして多くを作り、技を練ることができるであろう。汗のない工藝は美のない工藝である。
沈んでゆく工藝の歴史を省みると、このことが著しく目に映る。そこには情愛の水が涸れきっている。器は愛なき世界に放たれているのだ。傭う者は、作る者への愛がなく、作る者は働くことへの愛がない。どうしてかかる場合に器に愛を持つことができよう。
私たちは工藝においてむしろ天然の大を記念するに過ぎない。美は人為の作業ではなく、自然からの恩寵である。自然の慈雨に濡れずして工藝の種は芽生えないであろう。材料の貧しさは美の貧しさである。自然を遠ざかるものは、美からも遠ざかる。
無心とは自然に任ずる意である。無学であった工人たちは、幸にも意識の慾に煩わされることなく、自然の働きを素直に受けた。無心の美が偉大であるのは自然の自由に活きるからである。この自由に在る時、作は自ら創造の美に入る。近代の作に創意を欠くのは、自然への帰依が薄いからと云えないであろうか。
されば工藝の美は伝統の美である。作者自らの力によるものではない。(中略)よき作を守護するものは、長い長い歴史の背景である。今日まで積み重ねられた伝統の力である。そこにはあの驚くべき幾億年の自然の経過が潜み、そうして幾百代の人間の労作の堆積があるのである。すべて柳宗悦『工藝の道』
こうしたことが「正しき工藝の11の法則」でも示した以下の11の法則としてまとめられています。
- 工藝の本質は「用」である
- 工藝の最も純な美は、日常の用器に表現される
- 多く作られることによって、工藝はその存在の意味と美とを得る
- 工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない
- 労働の運命を担う大衆が、相応しい工藝の作者である
- 民衆の工藝であるから、そこには協力がなければならぬ
- 手工藝にも増してよき工藝はない
- 正しい工藝は天然の上に休む
- 高き工藝の美は無心の美である
- 個性に彩る器は全き器となることはできぬ。古作品の美は没我の美である
- 工藝においては単純さが美の主要な要素である
ここでは、Homo-centric「人間中心」に工藝の美、ものつくりの意義が問われているのではなく、Nature-centric「自然中心」であり、経済文化や社会における労働の価値、そして、人間の生き方までを射程にいれて、ものをつくるとはどういうことかが問われているといえます。
器の正しさは制度の正しさを要求する。器の美に破綻が来たのは、社会に破綻が来たからである。柳宗悦『工藝の道』
「自分で考えろ」「答えがあると思うな」というような言葉がまかりとおるような個人主義の社会はどこか破綻しています。個人は社会において常に孤立しており、個人のなかでも身体による労働や体験から得られる感覚から切り離された自己意識が孤独に苛まれています。
他力道
ここではとてもではありませんが、この偉大な書のよさのすべてを伝えきることはできません。願わくば、ものつくりに関わるより多くの方が実際にこの本を手にとって読んでいただければと感じます。とてもすべてを伝えきることはできませんが、最後に自然やまわりの人間・社会といかに関わりをもって、ものつくりを行っていくかということに関する柳さんの考えを紹介しておきましょう。
柳さんは「何の要あってかくは自然に素直にまた容易に生るべき美を、強いて曲げ作り工夫しようとするのであろうか」と個人の創意に疑問を投げかけています。なぜ「自然の志の悖る」ような作意や名をあげんがための個性の作をつくろうとするのか、といい、「自然は工藝をして民衆の手に成就せしめるために、最も平易な道を準備している」と書いています。
柳さんのこの考えの背景にある思想は仏教における「他力道」です。
私はあの『歎異抄』に書かれた親鸞聖人の言葉を感慨深く想い起す。「善人なおもて往来をとぐ、況んや悪人をや」と。(中略)私は宗教におけるこの秘儀を、工藝においても深く体験する。私が費した多くの言葉もついにこの一句に尽きる。柳宗悦『工藝の道』
「もしこの世に工藝の聖典があるなら、この言葉によってこそ書き起こされているであろう」とまで柳さんは言っています。
この「他力道」はいわゆるネットワーク理論や複雑系の科学、あるいは、環境とのアフォーダンスを考える生態的心理学や、そのもとにもなっている生態学、さらには経済文化を相互作用的に捉えた思想との関係で、僕らは捉えていかなくてはいけないでしょう。
個人主義という還元主義はいまや科学が還元主義におちいった挙句、おもちゃをバラバラにしてしまった子どもが再びそれを組み立てなおすことができずに泣いているような状態で、途方にくれています。ものつくりのような人間が行う活動に関しても同じです。ものつくりという活動をほかから切り離して単独で考えてしまい、それにともなう技術や思考もすべて「自分で考えろ」的な個人主義に還元し、まったく無意味な個性や新奇性などの作家性に溺れてしまっているがゆえにものつくりはどんどん経済文化や人間の地に足のついた生き方とはかけ離れてしまっています。そこに間違いがあるのは、いまや明らかなはずなのに、そこから抜け出すことができずにいるのが現状です。
僕はその原因のひとつに、これまで人類は新しい何かを生み出すことばかりに価値を置き、そのための方法論を考えるのには労を厭わなかったが、その反対に(伊勢)神宮の式年遷宮のような長期における維持・保存の方法論の創出には力を入れてこなかったということがあるのではないかと思うのです。その結果、「質の劣化と文脈からの逸脱」で書いたような時代とともに技術や生み出されるものの質が劣化していったり、器の正しさを維持するための制度の維持ができないという事態を繰り返してきたのでしょう。
ましてや、いまはもはや何を価値とするかの基準を社会的に示すことができず、まったく無意味に資本主義的要請を成り立たせるためだけにものつくりが行われている。そんな状況において「自分で考えろ」などと言われて、まともな思考ができるはずがないのです。
「善人なおもて往来をとぐ、況んや悪人をや」
僕らはもう一度「他力道」に帰るべく、過去のよき遺産に立ち返る必要があるのではないでしょうか?
関連エントリー
- 初期万葉論/白川静
- 漢字―生い立ちとその背景/白川静
- カムイ伝講義/田中優子
- 宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平
- ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎
- 木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一
- お能・老木の花/白洲正子
- 正しき工藝の11の法則
- 用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ
- されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない
- 勤労・勤勉が可能な社会
- 失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?
この記事へのコメント