質の劣化と文脈からの逸脱

以前から感じていることがあります。ある程度、時代をまたいだ美術展を見にいって感じることです。最近だと「対決-巨匠たちの日本美術」や「大琳派展 ~継承と変奏~」で感じました。

どうして時代が下ると、作品の出来は劣化していくのだろう、と。



他力本願

いまは亡き法隆寺の宮大工の棟梁・西岡常一さんも『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』でおなじようなことを書いてらっしゃいました。

古代の建築物を調べていくと、古代ほど優秀ですな。木の生命と自然の命とを考えてやっていますな。それが新しくなるに従って、木の生命より寸法というふうになってくる。

「木の生命と自然の命とを考えてやっていますな」ですか。
もうすこしで読み終わる柳宗悦さんも『工藝の道』でおなじようなことを書いてらっしゃいます。

すべての意図は概念的作為に落ちる。だが智慧と技巧とによって、何をか新たに産み得ようか。創造は自然の働きである。古作品が示す驚くべき創造の力は、その背後に自然があるからである。
柳宗悦『工藝の道』

柳宗悦さんはこれを仏教における「他力本願」とつなげて捉えます。他力本願とは、他人の力に頼ることではなく、神・自然を信頼しつつ自らその信頼において励むことです。意識や技巧に溺れることなく、自然の力、過去積み重ねられてきた技への尊敬のもとに自らの仕事に励むことをいうのです。

自然から意識へ、手仕事から機械へ

また、自然との強いつながりということでは、白川静さんが『初期万葉論』のなかで、初期万葉における前期の神である自然とつながりの強い呪的歌謡が、社会が言葉から文字の世界へ、古代的な巫祝的集団性から律令的なシステムへと移るのと同時に、後期の相聞的、叙景的な創作歌への移行する様を浮かび上がらせています。万葉集の時代といえば、1300年くらい前のことですから、すでにそこで人間と自然のつながりは失われはじめているのです。
いや、それどころではありません。『漢字―生い立ちとその背景』では、

神の世界は終わり、現実の精神がそれに優位する。文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。
白川静『漢字―生い立ちとその背景』

とも書いています。これは殷・周の祭祀的時代が終わったあとのことですから、雄に2000年以上前のことになります。

歴史的にみれば、社会が変化するたびに、人びとは自然から遠ざかり、意識の世界へと閉じ込もっていく様が見受けられます。自然を離れた意識による創作がさらに社会を変えていき、それがまた人びとを自然から遠ざける。近代は人間の手仕事さえ機械の仕事に置き換え、さらに現代においては見ること、記憶することさえ、テレビやインターネットに置き変わっています。

そうなると、こんなことも気になってきます。

産業革命とは、機械の導入によって大量生産し、ものの価格を下げ、価格競争に勝つことを意味した。ものが安価になるので平等になる、と言われるが、それは買う側に注目した場合である。作る側、売る側に注目すると、インドがそうなったように、ものを作っていた職人たちがまたたく間に職を失う。

自然や手仕事という、その地域やそこに暮らす人びとと強くつながったものから、意識や機械といった地域性、属人性が低いものへと比重が移れば、異なるもの同士の交換はより活発になる。資本主義の力は広がり、グローバリズムは浸透していきます。

社会・文化的文脈からの自由、それは何をもたらすのか?

ここでさらに地域制、民族性、属人性の文脈からの自由度が高くなるとどうなるのかという問題も生じます。
例えば、この2つの「社会・文化的文脈からの自由」という類似性をもつ事柄に関しては、どう捉えたらよいでしょう。

あらゆる言語は、ローマ字で書かれてさえいれば誰もが読むことができる。文脈にまつわる知識とはまったく無関係に、文章を読むことができるということは、ローマ字なら文章をその原典の文脈から完全に切り離すことができるということである。

当初の近代デザインの出発は、誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提をひとつの条件にしていた。かつて、近代以前の社会においては、デザインは複雑な社会的制度(階級や職業など)と結びついていた。どのような衣服を身につけ、どのような食器や家具などの日用品を使い、どんな住居に生活するのか。これは、けっして自由に選択することはできなかった。

あらゆるものが英語で書かれ、あらゆる製品・サービスが国を越えて流通し利用されています。産業革命の影響で、インドの綿生産が崩壊したように、グローバリズム、ユニバーサルデザインは、もともと地域にあった経済文化を破綻させていきます。

そうなると中国に4000年の歴史が積み重ねてきた文化や技術があろうとひとたまりもないでしょう。もちろん、日本の文化だって同じです。実際、すでに多くのものが失われています。自分たちがこれまで積み上げてきた文化を失うということは結局馬鹿になる、無能になるということだというのに、そこに危機感がないのはおそれいります。

この流れは止められないのか?

勤労・勤勉が可能な社会」で紹介した最近の民藝ブームはむしろ、その反動なのでしょうが、そもそも民藝運動そのものが、1920年代に柳宗悦さんが工業化社会を前に手仕事という文化技術が失われていく様子に危機感をもって興したものであることを考えると皮肉です。それは近代デザインの核ともいえるバウハウスが誕生するよりも10年以上前のことであり、その後、バウハウスが生みだしたデザインの方法論が世界を席巻し、日本にもそれを評価する流れが生まれてくるのですから。

たかだか、100年あまりの近代(いや18世紀以降をそう呼ぶとすればもっと長いか)が、それこそ中国であれば4000年、日本でさえも1300年くらいは蓄積してきた文化や技術を踏みにじり、壊していくというのは、あまりに不遜すぎるのではないでしょうか。いまからでも遅くはないと思うのですが、この傾向を止めさせる手だてというのはないのかと考えずにはいられません。

勤労・勤勉が可能な社会」でも引いた柳さんのこの言葉を最後にもう一度記しておくことにします。

この悪から、私たちを救おうとするなら、私たちは結合の世界へと転ぜねばならぬ。同胞の思想が固く保持される社会へと進まねばならぬ。かかる社会を私は「協団」の名において呼ぼう。それなら工藝に美を甦らすために、組織を協団へと進めねばならぬ。再び人間と人間を結合させ、人間と自然を結縁せしめねばならぬ。
柳宗悦『工藝の道』


    

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