勤労・勤勉が可能な社会

愛がない。

あの器に心がないと誰が云い得よう。もし人情の中で育てられないなら、その心は歪んでくる。(中略)沈んでゆく工藝の歴史を省みると、このことが著しく目に映る。そこには情愛の水が涸れきっている。器は愛なき世界に放たれているのだ。傭う者は、作る者への愛がなく、作る者は働くことへの愛がない。どうしてかかる場合に器に愛を持つことができよう。
柳宗悦『工藝の道』

失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?」にも柳さんの同著から「私たちは労働を短縮することによって、幸福を保証しようとすべきではなく、労働に意義を感ずるように事情を転ぜねばならぬ。何故なら労働なき所に、工藝の美はないからである。人間の生活はないからである。」という言葉を引きましたが、とにかくいま、勤労、勤勉というものをあらためて見直さなくてはいけない時期ではないかと思います。

勤労・勤勉を心がけ、さらに勤労・勤勉を心がけようとする他人を援助してあげる環境が必要です。そうでなければ、ろくなものづくりができないでしょうから。



勤労・勤勉でないもの

ただ、以下のものは「勤労・勤勉」ではないでしょう。

  • 自分のためだけに行う仕事・勉強
  • 自分だけで事をなすこと、なそうとすること
  • 特定の人だけのためになる仕事に時間を費やすこと
  • 多くの人のためにならない仕事に時間を費やすこと
  • 作業をともなわない会議を長々と行うこと
  • 口ばかりで手を動かさないこと
  • 机上のみで思考し、現場に出ようとしないこと
  • 過去の人間の遺産、他人の仕事に学ばないこと
  • 協働作業を行わないこと、行える環境をつくる援助をしないこと
  • 人工の技にばかり頼って、自然の力に敬意を払わないこと
  • 自ら学び、汗水たらして苦心することを避け、他人まかせで生きること

時間をかければ勤労・勤勉になるわけではありません。「サービス残業」も「家族をかえりみないがんばり」も決して勤労・勤勉ではありません。個人ががんばるかどうかが問題ではない。個人のがんばりを意味あるものにできるような組織のしくみ、社会のしくみになっているかどうかのほうが問題としては先決です。残念ながら、いまはまったくそうなっていません。
かといって、個人が労や時間を惜しんで勤労・勤勉もありえないのも事実です。また、自分が儲けるため、自分が褒められ、認められるためにだけやってるのなら、そこからは何も生まれえないでしょう。

脱・個人主義

とにかくなんでもかんでも個人単位で考えるから矛盾が生じるのでしょう。

田中優子さんがいうように江戸の町では家族が生産の単位でした。農村なら生産の単位はもうすこし大きかったでしょう。個人なんてものを単位にしているから自給自足は不可能になるし、なんでもかんでもお金を出さねば手に入らなくなるのではないでしょうか。

家族や村という共同体が生産の単位であれば、そのなかで生産可能なものはもうすこし増えるし、そのなかでならお金を介さない物のやりとりも可能でしょう。「傭う者は、作る者への愛がなく、作る者は働くことへの愛がない」なんてことにもなりにくい。アホみたいに(あるいはエラそうに)組織が個人を評価するなんてことも減って、もうすこしまともに生きることが可能になるんじゃないかと夢想します。

この悪から、私たちを救おうとするなら、私たちは結合の世界へと転ぜねばならぬ。同胞の思想が固く保持される社会へと進まねばならぬ。かかる社会を私は「協団」の名において呼ぼう。それなら工藝に美を甦らすために、組織を協団へと進めねばならぬ。再び人間と人間を結合させ、人間と自然を結縁せしめねばならぬ。
柳宗悦『工藝の道』

いい加減、個人がひとりで何かができるなんて思いあがった考えは見直したほうがいい。同時に、個々人の能力を必要以上に期待する組織のあり方も見直した方がいい。そうではなく、人びとの協力、グループワークによって何が成し遂げうるかをもっと大事に考えた方がいいのだと思います。

デザイン思考だとか、IDEOの方法だとかが取り沙汰されますが、その本質は別に、観察でも、プロトタイピングでもありません。その方法の本質は、仕事を社会のためのものととらえ、複数人が身体を使って行う仕事によって創造を成し遂げようとする、そのスタイルにあるのだと僕は思います。観察だとか、プロトタイピングだとかという方法論ばかりにいくら注目したって、土台となる仕事への愛、働く人への愛、そして、使う人、使われる物への愛がなければ、そんなものうまくいくはずがないでしょう。

そんなこともわからず、デザイン思考だの、イノベーションといってても足元すくわれるだけなのがオチです。ここは本当に気をつけないといけないと思っています。

民藝

とそんなことも書きつつ、ここから先は柳宗悦さんつながりというだけで、話はまったく変わりますが、どういうわけか最近、民藝がはやってますね。

最初に載せた写真はうちにある民藝もので、沖縄・読谷のものと大分・小鹿田のもの。春に日本民藝館に行って以来、すこしずつですが、気になったものを買ってます。
作家ものの器も買ったりしましたが、値段的にも、味わい的にも、僕には民藝のほうが馴染めるかなという印象。もちろん、作家ものでも気に入るものはあると思いますが。

ところで、民藝のはやり。先日も『Casa BRUTUS』で特集をしていましたが(琳派といっしょに)、昨日も本屋で『Discover Japan』の「うつわ大国、ニッポン。」という特集の号を見つけて買いました。



ここでも沖縄・読谷や大分・小鹿田の窯元の取材記事があって面白かったです。小鹿田は民藝運動に参加した作家のひとりであるバーナード・リーチも飛び鉋(うちの器の写真で手前の皿に入った模様)の技術を学びに訪れた、300年の歴史をもつ日本でも有数の古窯だそうです。



ところで、うちの器の写真にもありますが、皿の中心部近くに白い輪になった模様ってなんであるか知ってますか? あれ、模様を意図的に入れてるんじゃなくて、皿を重ねて焼くから、上の皿の高台が重なった部分が焼けずに白く残るんです。だから、一番上の皿だけはあの白い輪がなくて貴重なんだって。

それが自然な模様に見えてしまう/見せてしまうようなところが民藝のような手仕事の深さだと僕は感じます。

願わくば、これがただのはやりで終わらぬことを。

器の正しさは制度の正しさを要求する。器の美に破綻が来たのは、社会に破綻が来たからである。
柳宗悦『工藝の道』

   


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