と、そんなのんきなことを言ってる場合じゃなくて、これ、大事なことだと思うんですよね。
自分で手柄を立てるのではなく、部下に手柄を立てさせる
特に人の上に立つ人ならなおさらで、部下の働きは正しく評価し、自分の働きがそこに加わっていたとしても、手柄は部下にあたえて持ち上げるくらいが必要だと思います。この知識社会、情報化社会において、部下の能力をいかにのばしてあげるかは上に立つ者にとっては大事な仕事だと思うんです。それには社会やまわりの人間から部下が認められるようなサポートをしてあげなくてはいけません。いかに自分の手柄を立てるかではなく、いかに部下に手柄を立てさせるかこそ考えるべき。
もちろん、部下がやってもいないことを部下の手柄に見せる必要はなくて、あくまで自分と部下でいっしょにやったことなら手柄は部下にゆずるということ。それすれば部下の価値もあがって、結果として自分にも見返りが来る。結局は部下が優秀な人材に育てば、それは自分の宝になるでしょう。
人望を損ねるか、求心力を得るか
その反対に、部下の手柄まで自分の手柄にしてしまうのは最悪です。剽窃の罪ほど、この知識社会、情報化社会において重いものはないでしょう。見る人が見れば、本当は誰が手柄を立てたかなんてことはわかります(だって、他人の借りものじゃ、しょせんピントがぶれてますから)。部下の手柄を横取りすれば、結局は自分の人望を損ねるだけ。人はどんどん離れていくでしょう(というか、その前にあなたにプライドはないのですか?という感じですけど)。
逆に、自分の手柄を部下にゆずれば、求心力はあがってきます。
「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」でも一度、引用していますが、この文はもう一度ここで引用しておいた方がよいかもしれません。
正子は魯山人についてこう書く。
「金持ばかり相手にせず、安い日常品を沢山作っていたら、一世を風靡することも出来たでしょうに。一般の大衆も、もっと美しい道具がたのしめたでしょうに。人と喜びを分かつことのたのしさを、魯山人は、ついに知らずに終わりました」(『ものを創る』)
さすが美を知る白洲正子さんと思える言葉です。人と喜びを分かつことの大切さがわからなければ、美などわかるはずもないのでしょう。そして、人と喜びを分かつことのたのしさを味わいたければ、まず自分が他人に喜びをあたえなくてはいけないのでしょう。そう。手柄はいっしょにがんばった仲間にゆずってはじめて、仲間と喜びを分かちあえるという宝を得るのです。

グライダー
人を育てるというのは、そういうことだと思います。前に働いていた会社の社長は、よく「グライダー」だって言ってました。スタッフが育つまでは紐をひっぱって、空まで運んであげる。グライダーは自分では空に浮かぶ力がありませんから。でも、気流にのればグライダーは自分で飛べるようになります。もう紐は必要なく、スタッフ自身が自信を得て、まわりからも評価されるようになる。
別にそのときにグライダーをひっぱる自分自身が目立つ必要はない。目立たなくたって、誰がすごいかは一目瞭然ですから。そういう人なら、ついていこうという気にもなります。尊敬もします。そして、尊敬される人のまわりにはおのずから宝のような人材が集まるでしょう。
自分の手柄ではなく、他人が手柄を立てられるようサポートする。本当の宝はそこに集まってくるのだろうなと思いました。
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