と続けてきましたが、5冊目はこの本『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』。1冊目とおなじく田中優子さんの本です。
この本で田中優子さんの本を紹介するのは6冊目となります(たぶん、当ブログで紹介している著者のなかでは、松岡正剛さんの本に次いで多いのではないかと思います)。
というわけで、これまで田中優子さんの本は6冊読んだわけですが、僕はこの本が一番好きです。
世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる(いた)のだなあ-私は江戸時代を知れば知るほど、その時生きていたさまざまな人に出会い、心がゆさぶられる。「視野」は、空間だけでなく時間(歴史)のほうにも広く取ることができる。それが何とも、面白い。田中優子『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』
僕が田中優子さんの本を読ませてもらって、いつもありがたく思うのは、その著作を通じて「世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる」ことを教えてもらえるからです。田中さんのいうとおりで<「視野」は、空間だけでなく時間のほうにも広く取ることができる>し、それは必要で、かつ面白い。
田中さんは「江戸時代ほど、我々の持っているイメージと実態が違う時代はないだろう」と書き、その時代を語るには「切り口がたくさんある」という。この本はそのひとつの切り口として「江戸の恋」を選び、
- 恋の手本
- 初恋
- 恋文
- 恋人たちの場所
- 恋と性
- 心中
- 男色
- めおと
- 離縁
- りんきといさかい
- 老い・死・恋
の11のテーマで、江戸時代を生きていたさまざまな人びとを紹介してくれています。恋を入り口に江戸を語り、江戸を入り口に恋を語っています。これが何とも、面白いのです。
遊女:男にとって天女のような存在
まず「恋の手本」では、恋が必ずしも楽しいとは限らないということが、江戸時代の恋の手本=心中物を紹介するなかで示されます。また、切ない恋から生じた文学、文化のなかで「好色」という言葉が男女両方を対象にして用いられる非常に評価の高い言葉であったことや、そのなかで江戸の人びとがファッションを発達させてきた事情を紹介しています。次の「初恋」では、多くの子供が死に「七歳までは神のうち」と言われた時代において、子どもが性に関心をもつことが親にとっては健康のしるしとして喜ばれたこと、「恋文」では、恋のはじまりには手紙が必須で、そこでは自分の生き方・センス・こだわりをはっきりと徹底して正直に書きつづる必要があったこと、「恋人たちの場所」では、神社・寺・芝居小屋・祭・茶屋などが江戸の恋人たちの出会いの場所となったことが紹介されています。
「恋と性」では、江戸時代の遊女がどんな女性たちであったかを紹介しています。これがまた近代の娼婦とはまったく違う。江戸の「床上手」は単なる物理的な問題ではなく、演出能力であったこと、遊女には「相手の気持ちに敏感で、簡潔な表現で必要なことを言うことができ、お金や食べ物や自分の利益に欲張りなところがなく、手紙の文字も文章も美しく、雰囲気を壊さず陽気にきれいに適量の酒を飲み、歌をしんみり唄って人を感動させ、着るもののセンスが抜群で、動作がはっきりしていて、姿勢が良く、床に入れば日常を離れてうっとりさせ、必要なところにケチはせず、そして伽羅の香りがただよっている」という、まさに「男にとって天女のような存在」だったし、同性からもそのファッションや立ち振る舞いはあこがれの的であったことが紹介されます。
その意味で、江戸の遊女は単なる性的商品というだけでなく、江戸に生きる人びとのある種の夢だったわけです。その夢は決してふつうの恋という夢と、夢という意味では大きく異なるものではなかったのです。
性が創り上げる関係であるのと同様、愛も創らなければ存在しない。愛はセックスをすれば棚から落ちてくる、というものではない。道に落ちてもいないので、「出会い」とやらで偶然拾えるわけでもない。自動販売機に入っていないので、お金を払えば購入できるものでもない。でも、どこか遠くにあるわけでもない。あなたが創りさえすれば、そこに生まれる。「どうやって?」-簡単なことだ。「私は創っている」と意識するだけで、違ってくる。その一言で、そのちょっとした表情で、あなたは毎日自分を創って(あるいは壊して)いるし、愛を創って(あるいは壊して)いる。大事なことはすべて「ちょっとしたこと」だ。田中優子『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』
そう。夢もまた創るものなのでしょう。それには「ちょっとした」日々の努力があればいいはずです。これは『カムイ伝講義』で描かれた江戸期の農民や穢多・非人の夢と努力を重なってきます。
浮気、浮世
その「恋と性」のあとには「心中」がくる。ここでは日本の伝統のようにいわれる心中事件がじつは貨幣経済社会の矛盾として行われたことに言及されます。そして、その矛盾は、日本では江戸時代までは男色はじつにノーマルであったことが紹介される「男色」をはさんだ「めおと」で、江戸時代の結婚が恋愛の先にあるものではなく、現実的実際的に生きていくために行われるものであり、家族は江戸時代における生産の単位であって結婚はまさにいまの就職と変わらなかったこと、それゆえに心中につながるような矛盾も生じることが紹介されます。そして、そういう結婚であったからこそ「離縁」もまた、生きるための選択であり、女性が結婚の際の持参金や家具調度衣類は最後まで女性の財産であり、離縁の際にはそのまま持ち帰ることができたこと、それに手をつけた夫はそれが返せるまで離縁できないことが紹介されます。さらに「りんきといさかい」では江戸時代においては嫉妬は避けるべきものと考えられており、嫉妬にも高等テクニックから下等テクニック(もはやテクニックとはいえない?)とその中間の嫉妬があったことが紹介され、最期の「老い・死・恋」まで、いまの時代とはかなり異なる江戸の恋愛事情、性の事情、家庭と社会の事情が紹介されています。
遊女には廓言葉という人工言語があった。田中さんは新人アナウンサーが標準語という人工言語を完璧に話せるように訓練するのと同じだといっています。
すべての遊女は廓言葉を話せるようになり、その結果、出身地がわからなくなる。遊女の反対語が「地女」であるのは偶然ではない。遊女は「土地」からも「日常」からも浮上した天上の女なのである。田中優子『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』
しかし、浮いているのは遊女だけではありません。この時代において、江戸そのものが浮いており、そこで暮らす人びとにも、どこか足もとがおぼつかないような印象があったのでしょう。
人びとはその社会を「浮世」と呼び、人に恋することを「浮気」と呼んだ。
浮気、浮世-浮いているものに自分をゆだねる。ただし、そういう自分をもうひとりの自分がちょっとからかいながら見ている。切ないならばそれもいい。夢が覚めたらそれもまあ、しかたない。固くてひんやりした地面も、なかなかいいものだ。-それが江戸の恋である。田中優子『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』
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