ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ

「音を表わす書記法はすべて水平に書かれ、形象を表わす書記法は、中国の表意文字やエジプトの象形文字も、垂直に書かれる。さらに形象に基づく文字体系では、縦行は右から左へ読み進むのが一般的である」。

本書『ポストメディア論』は、『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』『グローバル・ヴィレッジ―21世紀の生とメディアの転換』などの著作で知られるメディア論の父、マーシャル・マクルーハンの後継者であり、トロント大学マクルーハン・プログラムのディレクターをつとめるデリック・ドゥ・ケルコフによって1995年に書かれたもの。マクルーハンの後継者というポジションを示すかのように『ポストメディア論』と題された、この本はテレビやインターネットなどのテクノロジーによって拡張された人間の知覚やそれらのメディアの上で形成された集団的な意識を論じています。

初期万葉論/白川静」、「外は、良寛。/松岡正剛」と続けてことば-文字をテーマとして扱った本を続けて紹介してきましたが、冒頭に引用した文が示すとおり、この本も人類にとっては初歩的かつ根源的なメディアである言語-文字を扱っています。そして、その本のなかでケルコフは次のように述べています。

言語は、人間心理を起動させるソフトウェアである。したがって、言語に大きな作用をもたらすテクノロジーはなんであれ、身体・感情・心など、私たちの行動全般に影響をもたらす。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

言語に関するテクノロジーがいかに人間に、そして、社会に影響を与えてきたかは、「初期万葉論/白川静」、「外は、良寛。/松岡正剛」でも見てきたとおりです。



冒頭の文章にしても単に単に言葉の表記に関わるだけの問題ではありません。日本語の縦書きの文章も右から左へと読み進められるように書かれますが、アルファベットで書かれた文字は左から右へと読み進められます。
ケルコフは言葉の表記に関して「もしそれが左から右へと読み進む成功とともに右の視野へひっぱられる場合、あなたにとって、行動や時間や現実は左から右へと進むと結論づけてよい」といっています。確かに、西洋的なカレンダーの表記やスケジュールを作成する場合、時間は左から右へと進行するように記述されます。しかし、日本における伝統的な巻物の形式では、その書き文字の流れと同様に右から左へ時間が推移するように物語られます。縦書きの本であればページをめくった際に目が行くのは見開きページの右上でしょう。これはウェブページなどで人間の目はまず左上を見るというのとは反対です。絵画における陰影も左上から光が当たっているように描くことが基本とされますが、もしかすると縦書きの国では逆に右上から光を当たっているように陰影を描いたほうが自然なのかもしれません。

アルファベットと遠近法

ケルコフはまさにこの言葉の表記法と絵画の問題を関係づけて論じています。

アルファベットの思考態度の主たる特徴は、「遠近法」の発明である。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

といいます。「遠近法は、空間を三次元的に比例的に描写する方法で、読み書きを習得した脳の直接的投影である」ともいっています。松岡正剛さんは『山水思想―「負」の想像力』で、東洋では古くから山水画という風景を描いてきたが、西洋では15世紀になるまで風景画は描かれることがなく代わりに幾何学が発達したと書いており、絵画においても「西ヨーロッパでは、あくまで近い人物から遠い風景へと視点が進み、東アジアでは遠い風景の中に点景としての人物を配した」と西洋と東洋の違いを紹介してくれています。これは心のなかに映った景色を視るのと、自然のなかに在る自分を想うことの違いでしょうか。

遠近法で物を見るということは、心のなかですべての物をしかるべき位置に正しい比率で配置することである。(中略)合理主義とは、物と観念と関係性を、個別にではなく、同じ秩序に属する他者との関連でそれぞれの比率を検討することである。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

もちろん、合理主義も、遠近法も決して自然なことではありません。ケルコフも「子供の絵の世界では遠近法など無用だ」と書いています。

実際、遠近法で世界を表現することに興味を示したのは、西欧文化だけである。中国やエジプトやアフリカの文化ではほとんど顧みられなかった。西欧文化でさえ、中世においては遠近法など気にもとめなかった。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

ケルコフが着目するのは、西欧の人びとが遠近法への趣向を高めはじめたのが、「アルファベットの読み方を学んだ古代ギリシアの最盛期と、かなり下ってヨハン・グーテンベルグによって活版印刷が発明された時代だ」という点です。紀元前6世紀から5世紀のギリシアで奥行きを縮めて描く方法が発明され、13世紀終わりからルネサンス後期にかけて遠近法が編み出されたのです。

遠近法を活用することによって、アルファベットの作用を受けた脳の枠組が現実のうえに時間と空間というふたつの座標軸をはりつけ、その動きを止めたのである。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

そう。ここで時間は空間化され、時間は視覚的になると同時に静止したのです。視点はある特定の消失点に固定され、動きを止めました。それは東洋の絵画が絵巻物でも屏風画でも常に視点の移動とともに時間の流れをそこに生じさせるのは正反対です。



文脈からの離脱

アルファベットが人間の思考に影響を与えたのは、遠近法を介してのみではありません。ケルコフは、アルファベットはその「音節明瞭な言語の優位性を全面的にいかして、思考をテクノロジーに変換してきた」と述べています。一方で、セム語系の母音をもたない筆記文字ではテキストが文脈(コンテキスト)から完全に独立して存在できないという制約があることに言及しています。

ヘブライ語を知らずにヘブライ語の文章を読むことができないだけでなく、記述内容の文脈についてかなり広範な知識なくして、それを読むことはきわめてむずかしい。すべてではないにせよ、ほとんどのヘブライ語文章を読む場合、共通基盤や知識母体を参照する必要があり、多くの場合観念的な離脱を許さない。その意味で、知識はきわめて神聖なものであり、勝手な解釈できないようになっているのだ。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

このことゆえに、ヘブライ語の表記の世界では、読み手が書かれた文字を前に自由な思索を行うことはむずかしい。テキストがコンテキストに縛られているというのはまさにそういうことなのです。

一方で、母音をもつアルファベットによる表記ではまったく事情が異なります。

あらゆる言語は、ローマ字で書かれてさえいれば誰もが読むことができる。文脈にまつわる知識とはまったく無関係に、文章を読むことができるということは、ローマ字なら文章をその原典の文脈から完全に切り離すことができるということである。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

アルファベットにおいてテキストはコンテキストからの離脱が可能になる。人びとは書かれたテキストを読みながら、元のテキストの文脈から離れた自由な思索ができるようになるのです。

これはヘブライ語世界と異なるだけでなく、オーラル・コミュニケーションの世界とも異なるということは、忘れてはいけない。西洋においても自由な思索が可能になったのは、遠近法が発明されたのと同様に、グーテンベルグによって活版印刷が発明され、中世が終りルネサンス期に入ってからだったのだから。

まさにこのあたりの事情は、「初期万葉論/白川静」で紹介した、万葉歌の世界が文字の使用により前期と後期で一変した事情と酷似しています。「記」「紀」、万葉の時代においても文字の導入によって、一部の語部、遊部に独占的に蓄積されていた知の体系が、文字が扱える人なら自由に利用可能なものに変化し、氏族共同体的な社会から律令制による中央管理体制に移っていきます。それはアルファベットが可能にした文脈・共通基盤・知識母体からの離脱と同様の作用だったとみてよいでしょう。

それほど「言語に大きな作用をもたらすテクノロジーはなんであれ、身体・感情・心など、私たちの行動全般に影響をもたらす」のだということです。

メディアはマッサージである

「メディアはマッサージである」というマクルーハンの有名な警句はこのような意味で理解しなくてはならないのでしょう。

言語という最初期に発明されたメディアのひとつであり、いまなお人類にとって主要なメディアでさえ、ここまで見てきたように人間の身体・感情・心・行動に大きな影響を与えるものです。その延長線上にある書物、テレビ、インターネットもとうぜん「言語に大きな作用をもたらすテクノロジー」である以上、同様の影響を人間に与えていると理解しなくてはなりません。

先に遠近法は、時間を空間化することによってその流れを止めたと書きましたが、テレビにおいてはそれ以上のことが起こっています。絵画であれば、そこから目をそむけることで時間はすぐに流れはじめますが、テレビではその静止した時間を映しだす映像から容易に目を離すことはできず、何時間もその画面を見続けることになります。しかも、ケルコフは「あなたがテレビを見ているのではなく、テレビがあなたを見ているのである」とさえ言います。

テレビは固定化された画面の前に視聴者を釘づけにし、カメラの視点が提供する映像を人びとに投射する。それに比べ書物を読むときは、しばし本を閉じて動き回ったり、目を離して自分の考えにふけるなど、私たちが情報処理をコントロールできる。テレビは、世界中の文化で情報処理装置として君臨し、家庭の私生活に入り込むことによって、象徴的な情報を扱うために、身体と精神の新たな統合を要請したのである。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

本を読むときに自分の考えにふけるようなことは、テレビの前では許されません。テレビのスピードは僕らに情報の解釈をさせてはくれません。その代わり、テレビの方が解釈をしてくれているのです。集団的な解釈をテレビは僕らに見せてくれていて、僕らは自分の外部に委ねた解釈によって身体をマッサージされているのです。

アルファベットが文脈から離脱させた思索は、テレビの登場により僕らの身体からも離脱してしまったのです。そして、とうぜん、それはインターネット上でさらに拡張しているといってよいのでしょう。



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