初期万葉論/白川静

白川静さんといえば漢字研究が有名ですが、ご自身によれば、もともとは『万葉』について考察する準備として中国の古代文学を志し、その結果生まれたのが「字統」「字訓」「字通」の字書三部作であり、数多くの漢字研究・中国文学研究の著作でした。その意味で本書『初期万葉論』は、白川さんにとってはようやく辿りついた本来の研究対象だったといえるのでしょう。

さて、その『初期万葉論』ですが、ひとことでその論旨を要約してしまえば、

初期の万葉歌に叙景の名歌を認め、『人麻呂歌集』的な相聞歌を人麻呂の呪的儀礼歌に先行させるような史的倒錯を、許すべきではない。
白川静『初期万葉論』

ということになるでしょう。

初期万葉歌の呪的性質

白川さんは、この本で『万葉集』を中国の『詩経』と比較文学的に並べることで、初期万葉の呪的儀礼的性格を浮かび上がらせます。

軽皇子の安騎野の冬猟を詠んだ人麻呂の歌に関しても、

これらの歌は、単なる追憶のためでも、山尋ねや招魂のためでも、また人麻呂の過去の喪失感やそれへの回帰というような、個人的契機のために作られたものではない。この歌群がすでに従駕の作であり、その献詠歌であるとするならば、そのような個人的契機が作歌の表面にうち出されるはずはなく、歌はすべてその従駕の目的に奉仕するものであり、この冬猟と旅宿りという呪的意味をになう行為と関連するものでなければならない。
白川静『初期万葉論』

と、その呪的性質を明らかにし、安騎野の冬猟そのものの目的を、天武天皇の子であり皇統をつぐ前に没した草壁皇子のさらに子息である軽皇子に、天皇霊を継承するためのものであったと読み解いています。

また、雄略の御製と伝えられる巻一の巻頭歌が、草摘む乙女にことばをかける妻問いの歌として知られることに対しても、草摘みという行為そのものが、玉藻刈り同様に神事であり、予祝的な民俗的行為であり、単なる相聞歌(消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌)ではない点を指摘しています。このあたりは古代歌謡研究の第一人者である土橋寛さんの『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』に書かれた、花見や山見などの呪的儀礼的行為とも重なってきます。

呪力のある植物は呪的儀礼はもちろん、神祭りにも、祭場に立てたり、祭りに従事する人々の挿頭、鬘、手繦(たすき)として用いられた。それは儀礼の場や儀礼に従事する人を聖化するためで、神聖とは元来生命力に満ちた状態を言うのである。

花見、山見という儀礼において、花を見、山を見る。「見る」ことで花や山などの自然のもつ生命力を肉体に宿らせようとする儀礼的行為。白川さんも「自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」ことであった。前期万葉の歌に多くみられる「見る」は、まさにそのような意味をもつ行為である」としています。

「見れど飽かぬ」、あるいはこれに近い表現の詞句は、『万葉』のうちに約50例近くを数える。(中略)「見れど飽かぬ」は、その状態が永遠に持続することをねがう呪語であり、その永遠性をたたえることによって、その歌は魂振り的に機能するのである。
白川静『初期万葉論』

「見れど飽かぬ」は叙景的に景色を眺めることではなく、本来はこのような魂振り的な意味合いで詠まれたのです。

白川さんは「本来は招魂儀礼として行われていた旅寝が、その呪的機能を次第に希薄化してゆき、やがて追憶そのものとなり詠歌となってゆくところに、『万葉』における呪的伝統の衰退がある」と述べ、その希薄化・衰退の時期を人麻呂以後に見ています。

呪儀に奉仕する遊部

人麻呂に代表される呪的性質をもった初期万葉は、人麻呂の死とともに変容し、その後は歌人の個人的な契機が盛り込まれた抒情歌や叙景歌の時代へと移っていきます。

人麻呂の歌について、従来カオス的とかディオニュソス的ということばで美化されているところのものは、このような古代的呪歌の伝統に基くものであった。それは古代的なもののもつ深さであり、古代的なものが滅びるとともにまた失われてゆく美である。それで人麻呂の完成した呪歌様式としての長歌は、人麻呂の死とともに終焉を告げる。(中略)そしてその古代的なものの喪失の上に、はじめて抒情歌や叙景歌の成立が可能となる。
白川静『初期万葉論』

呪歌的な歌詠は古い伝統をもつ呪儀にともなって詠じられ、その呪儀に奉仕するものとして遊部が組織されていました。白川さんは、折口信夫の説から「人麻呂はこの遊部に属していたものであろう」と述べています。呪儀にともなって詠じられていたわけですから、意味合いとしては神道における祝詞に近いと想像してもよいのかもしれません。

書かれたことば

白川さんは、『漢字―生い立ちとその背景』で、中国において文字が獣骨や亀の甲羅などに刻まれた呪術的な文として誕生したことを論じていますが、そのなかでこんな風にも書いています。

卜旬は、のちには王が次の一句の時間を祓う定例の儀礼となったが、古くは実際に占卜のために行われた。占卜の結果は、王が巫祝長として、自ら判断した。そしてその判断は、このように必ず事実として、その正しさが証明されるのである。
白川静『漢字―生い立ちとその背景』

この王による占卜の儀礼の際に書かれた辞が亀の甲羅などに刻まれた甲骨文です。しかし、なぜそれは書かれねばならなかったのか。白川さんはこう続けています。

もし卜辞が占卜のためだけのものならば、吉凶を予占することができれば、それで足りるはずである。強いていえば、占卜の辞を刻することも不要であろう。しかるに占卜を辞を刻し、王の占断の語を刻し、さらにそのことが事実として験証されたことを刻するのは、なぜであろうか。そこには疑いもなく、巫祝長としての王の占断に誤りがなかったことを、記録としてとどめようとする意識がある。
白川静『漢字―生い立ちとその背景』

実は、ここに日本で最初に文字で記された歌集である『万葉集』が変化していく要因が隠されています。

歌の変化、社会の変化

万葉における前期の呪的歌謡から後期の相聞的、叙景的な創作歌への移行は、まさに口にされることばから書かれた文字への移行とともに生じたといえるのではないでしょうか。

文事の上では、遊部系統の伝承が無力なものとなり、長屋王を中心とする漢詩壇が、おそらく宮廷の文華を独占したことであろう。
白川静『初期万葉論』

「記」「紀」ののち、オーラルなことばを語り継いだ語部の力が衰えていったように、儀礼における呪歌的な歌詠をになった遊部の力も、歌詠の文字による編纂が行われると同時に衰退していく。それは政治的にも古代的な巫祝的集団性から、律令的なシステムへの転換とも重なります。社会のシステムが変わるなかで、力のバランスも変化し、歌もまた変化していく。

大きな対立と分裂が、文事をも含めて社会全般にわたって、急速に進行していたようである。『万葉』における呪詞的用語の凋落が著しいのも、そのためであろう。「見れど飽かぬ」「君がため」「わが恋ひやまぬ」なども、本来の魂振り的な限定をもたずに使われるようになった。
白川静『初期万葉論』

白川さんはここに叙景歌、抒情歌の成立の契機をみています。
万葉の歌は、ほんの短い期間のあいだにそれを生み出した社会と同時に大きく変化します。古代の社会から律令の社会へと。

人麻呂、旅人、憶良、家持という万葉歌の展開を、かりに中国の文学の展開において求めるとすれば、それは『楚辞』、魏晋の詩、晋宋の詩ということになろう。この700年をこえる中国文学の展開を、『万葉』はその10分の1にもみたぬ60年ほどのうちに経験したことになる。
白川静『初期万葉論』

外部が700年かけて行ったものを、たった60年でやり遂げた万葉の世界。そう。これはまた別の歴史的な何かに似ています。

外からの影響を受容するには内的蓄積が欠かせない

そうです。これは江戸から明治への移行にも重なってきます。

このように急激な展開が可能であったのは、それまでの久しい間にわたって蓄積された大陸文化の土壌の上に、律令制への移行や遣唐使の派遣など、積極的にその文化摂取のための政策がとられたからであった。それは明治の開化の際と同じく、一種の周辺革命的な文化変革の相をみせている。外からの影響は大きいものがあったが、その受容に耐えうる内的な蓄積があって、はじめてそれが可能であった。
白川静『初期万葉論』

そう。これは江戸から明治への変化に似ています。そして、変化の前には長年の蓄積があったという点でも。

昨日の「カムイ伝講義/田中優子」で紹介した「江戸時代は大量の職人が輩出した時代で、その技術力が近代産業の基礎になった。日本の技術力は単なる機械力ではなかったのである」というのがまさにそれです。

外の影響を受容するにはまず内なる蓄積がなければ不可能であるということ。これは個人においても、民族レベルでもおなじなのでしょう。

白川静さんの本を読んだのは、この本が最初ですが、予想以上におもしろかったです。みなさんも食わず嫌いにならずにぜひご賞味ください。



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