用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ

昨日の「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない」というエントリーでは、柳宗悦さんの『工藝の道』から以下を引用しました。

されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。
柳宗悦『工藝の道』

基本的には「用の美」について述べた一文です。柳宗悦さんは「今の器が美に病むのは用を忘れたからである」とも書いています。「用と美と結ばれるもの、これが工藝である」とも書いています。

用の美はいわゆる機能美ではない

ところが、この「用の美」をいわゆる機能美として理解してしまうと間違いです。

ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。
柳宗悦『工藝の道』

と柳さんは述べています。そして「唯物的用と云うが如きは概念にすぎない」として、同時に、「「美だけ」ということが、唯心的空虚であるのと同じである」とも言っています。

用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。
柳宗悦『工藝の道』

不二とは、もとは仏教用語で、相対的でないことを指します。日常的、世間的、人間的な認識では相対立して現れる事柄が、仏教の高度な理解においては統一して捉えられることを示しています。
つまり、物心への用は、2つの異なる相ではなく、おなじ統一された用であると柳さんは言っているのです。

これが機能美でないのは明らかです。
そもそも機能は決して用ではありません。それはモノの側、システムの側の働きを示すのみであって、必ずしもそれが人の用を満たす働きになるとは限らないのは、世の中の多くの製品を思い出せばすぐにわかります。
しかも、その機能をさらに視覚的なデザインとは別に考えたりします。おなじモノづくりをするのに開発とデザインが分かれたりします。さらに、プロダクトデザイン、UIデザイン、システム設計などとなってくると、もう意味不明といわざるをえません。

用は不二であるはずなのに。

「多」の美、労働の美

『工藝の道』に所収された「正しき工藝」という文章のなかで、柳さんは、こうした用の美が、作家からではなく、普通の工人から生まれてくるということを繰り返し述べています。

初代の茶器に見られる雅韻は、いかにそれが多量に迅速に作られた民衆的作品であったかを語る。茶器はその中から選んだわずかなものに過ぎぬと云う人もあろうが、しかし多量につくられる品でなくば、選ぶということもできないであろう。茶器の美は「多」の美である。
柳宗悦『工藝の道』

大量に作り、多くの人に使ってもらうのだから、高いものではいけません。廉価であることが条件となります。「美が高き代価において購われると思うのは、全くの錯誤である」と柳さんは書いています。

そして、このことから「工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない」とも続けます。

人々は美しい作を余暇の賜物と思ってはならぬ。休む暇もなく働かずしてどうして多くを作り、技を練ることができるであろう。汗のない工藝は美のない工藝である。
柳宗悦『工藝の道』

前に「なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?」というエントリーを書きましたが、たくさんのものをつくる労を嫌っては、よいものなどできるはずないと僕も思います。普段仕事をしてても感じますが、口先ばかり立派で手が動かない人がまともな仕事をするのを見たことがありません。

また、そういう人に限って、ろくに他人の作ったものを評価できない。けなすことはできてもよいものを見つけてくるということができません。
柳さん自身はものは作らなかった人ですが、日本各地や沖縄や朝鮮を歩き回って数多くの民藝を収集した人です。その成果が日本民藝館という形を成しています。ものはつくらなかったが、民藝というものをつくり、日本民藝館をつくりました。これは多くの物を見て目を養うことの重要性について書いた「もうひとつの量の追求」にも通じることです。



大学は職業学校じゃないんだから・・・

柳さんは器、工藝に関して述べていますが、これは決してそれらの範囲に限った話ではないと思います。人びとが必要とし、利用するモノのデザインにはことごとく当てはまることだと思いますし、さらにいえば人そのものにも当てはまるのではないでしょうか。

後年、次郎は親しい作家の一人、川口松太郎との対談で、

「日本の学問のやり方はいけないねえ、(中略)商売人になる奴が経済学、政治家になる奴が法律学なんて大間違いなんだよ」

といっている。
「週刊朝日」の名物編集長だった評論家、扇谷正造との対談では、日本の若者は一般に、法律や経済をやりたがりすぎる。実社会で経済活動をするときに、経済学は必要ない。一円で買ったものを二円で売れば一円儲かることは、経済学を勉強しないでもわかると、まことに明快で、

「大学は職業学校じゃないんだから、一般の常識というか、ものを考える力を養成すべきだと思うんだ。

といいきっているが、彼が7年間の留学生活で得た一番の収穫は、「ストラッフォード伯爵」の称号を持つロバート・セシル・ビング、通称「ロビン」という生涯の友を得ることができたことであろう。

これこそが「用の美」の拡大した例ではないでしょうか。
経済学や法律学より、一般の常識やものを考える力、さらにそれ以上に大事なのは生涯の友ということ。用という意味では、これ以上のものはそうはありません。

人と喜びを分かつことのたのしさ

夫の次郎がそうなら、妻の正子もまさに「用の美」を知る人でした。

正子は魯山人についてこう書く。

「金持ばかり相手にせず、安い日常品を沢山作っていたら、一世を風靡することも出来たでしょうに。一般の大衆も、もっと美しい道具がたのしめたでしょうに。人と喜びを分かつことのたのしさを、魯山人は、ついに知らずに終わりました」(『ものを創る』)

「人と喜びを分かつことのたのしさ」。まさにこれだと思います。

人の用にかなったものをつくること、その労働を厭わず精を出すこと、そのために学問に頼らずに自分の身体をつかって工夫し続けること、そういう具体的な行為を通じて人と喜びを分かつことを楽しめること。
そうしたことが結局、よいものをつくるためには必要なんじゃないかと思います。

僕自身、グループワーク型のワークショップをディレクションさせていただく機会が多いのですが、限られた時間内で成果を出せるワークショップでは、参加者が積極的に役割分担しながら作業を行う場合です。
逆に、手を動かさずに口ばかり動かしたり、参加しないで座っているだけの人がいる場合だと場は盛り上がらないし、結果としてできるものも質が低いか、ひどい場合、時間内になんの成果も出せなかったりもします。

結局、こういうところにいまの多くの組織が創造性を欠く根本的な原因があると感じます。
「人と喜びを分かつことのたのしさ」を知らずして、どうして多くの人びとに求められる「用の美」をもったものづくりができるのでしょうか。ここのところを個人も組織もちゃんと見つめなおさない限り、創造性もへったくれもあったものではないはずです。

  

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