いまなぜ白洲正子なのか/川村二郎

「いかにかすべき我が心」。



この本は、自身の将来に悩める女性にはうってつけの一冊ではないかと思います。

「あんたねえ、好きなことを何でもいいから1つ、井戸を掘るつもりで、とことんやるといいよ。途中で諦めちゃあ、ダメよ、わかる? とことん掘るの。女が好きなら、女でもいいよ。あんたなんか、ケツの毛まで抜かれちゃうだろうけどさ、だけど、とことんやれば、地下水脈に当たるわ。地下水脈は四方八方に通じてるでしょ。地下水脈に当たると、突然、ほんとうに突然、いろんなことが、わかるのよ。掘り方がわかんなくなったら、あたしから盗めばいいのよ」
川村二郎『いまなぜ白洲正子なのか』

いや、女性だけでなく、「いかにかすべき我が心」と悩み続けている男性にも。

白洲正子とは

いま白洲次郎・正子夫妻が一種のブームになっています。

この本だけでなく、朱と黒に塗り分けた漆の器の表紙が印象的な『白洲次郎と白洲正子―乱世に生きた二人』『白洲正子のすべて』などの新刊本を書店でよく見かけます。
僕の家の本棚にもすでに書評も書いた『白洲正子と歩く京都』『白洲正子“ほんもの”の生活』『白洲正子と楽しむ旅』などの本が並んでいます。もちろん、白洲正子さんの著書『かくれ里』『お能・老木の花』『世阿弥―花と幽玄の世界』などといっしょに。

今年の4月に書いた「かくれ里/白洲正子 & 白洲正子と歩く京都/白洲正子ほか」というエントリーでは、「最近、僕のなかで熱い人は誰かと問われれば、間違いなく白洲正子さんをあげたいと思います」とまで書いている。

とにかく白洲正子さんの著書を読むと圧倒されます。
お能・老木の花/白洲正子」で書評を書いた『お能・老木の花』の表題作でもある「お能」は白洲正子さんのデビュー作で、アメリカ留学より帰国し、後に吉田茂総理大臣の右腕となる次郎と結婚し、日本が太平洋戦争に突入し、白洲夫妻が東京から神奈川の鶴川に引っ越す直前の1943年に書いた作品で、4歳から名人・梅若実に能を習い、女人禁制だった舞台にはじめて立った女性である正子が、世阿弥の時代から600年、変わることなく日本の舞台芸術として受け継がれた能について書きつづったものです。おなじく同書に所収された「梅若実聞書」は、師である梅若実にインタビューをした芸談の傑作と呼ばれる作品です。

いかにかすべき我が心

そのほかにも数多くの著作を残した白洲正子さんですが、決して早くから文筆活動をはじめたわけではありません。

上にも書いた「お能」は伯爵家に生まれてお金など稼いだこともない正子が33歳にしてはじめて印税というお金を稼いだ書でしたし、その後も青山二郎を中心に、小林秀雄や河上徹太郎、大岡昇平、永井龍男などの文士が集まった通称「青山学院」で、怒られ泣かされ、学びながら「いかにかすべき我が心」と悩みつづけた40代でした。

未熟なことは承知していても、心血を注いだ文章が、原形をとどめないまでにされていくのを見ているのは、身を切られるように辛いことだった。
正子は、たまらず吐いた。それを横目で見ながら、
「ソバだって、うどん粉やタマゴを入れるのはゴマカシだ。つなぎを入れずに打つのは、むずかしいことなんだ」
といいながら、さらに切り刻んでいく。いっそぶたれる方が楽だと、正子は思った。
川村二郎『いまなぜ白洲正子なのか』

小林秀雄さえ言葉で泣かしたという青山二郎です。
まだ「いかにかすべき我が心」と悩んでいた白洲正子さんが吐いてもおかしくはなかったのでしょう。

井戸を掘る

そんな正子さんが自らの井戸を掘り当てたと感じたのは50代に入ってからだったといいます。

50年近く能を続けてきて梅若の家から「免許皆伝」をもらい、久しぶりに本格的に舞おうと兄弟弟子の梅若六郎(五十五世)とともに「蝉丸」を舞ったのです。周囲の評判はよかったそうです。しかし、そこで正子さんは「二度と再び、お能は舞うまい」と固く心に誓ったのです。

能を続けてきて、一番の財産は女ではじめて女人禁制の本舞台に立ったことではない。梅若実につくことができて、芸談を聞き書きすることができたことだと思う。名人は能のことしか話さなかったが、ひと言ひと言が腑に落ちることばかりだった。

「いくら説明しても、解らない人には解りはしません。(略)始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかしです」(『梅若実聞書』)

といわれたが、これなど何も能にかぎったことではない。世の中のたいていのことにいえそうである。
川村二郎『いまなぜ白洲正子なのか』

このことに気づいて、正子さんは「自分の井戸が心のふるさとの能である」と確信したそうです。

梅若実は井戸を掘るように、能をどこまでも追い求めた。そして名人と呼ばれるようになったとき、地下水脈に当たったのだ。
地下水脈は四方八方に通じている。それだから名人の言葉は、世の中のいろいろなことに通じるのだ。
川村二郎『いまなぜ白洲正子なのか』

その後は『かくれ里』や『西国巡礼』などの有名な著作を次々に書き連ねていきます。
「いかにかすべき我が心」と悩みつづけ、自分の井戸を掘りつづけてようやく地下水脈に当たったのです。

少し前に「自分は引き際の良さ、時機の見極めができてないなと感じる人のための3つの処方箋」というエントリーで、「引き際の見極めって実は、続けるか、辞めるかという判断ではないんですね。それはむしろ継続性の先にある。意志を継続しつつ、やり方を変えることです」と書きましたが、結局、何かを辞めることなんて人間にはできないんですね。生きているかぎり、「いかにかすべき我が心」と悩み続けるか、白洲正子さんのように悩みつづけて、具体的なチャレンジもいろいろして地下水脈を見つけるかしかないんでしょう。
そこで自分を誤魔化さずに(つなぎのうどん粉やタマゴを入れずに)「井戸を掘るつもりで、とことんやる」ことができるかどうかなんでしょうね。腹をくくって。

白洲正子の周辺

それにしても、この本を読んでいると、この白洲正子さんのまわりに現れる人びとの名前には驚きます。

先の吉田繁総理大臣や青山二郎、小林秀雄だけでなく、子どもの頃に住んでいた永田町の家は、旧岩崎邸をはじめ数々の良家の私邸を手掛けたジョサイア・コンドルによる設計だし、その家には黒田清輝の絵がかかっており、御殿場の別荘には後の昭和天皇である摂政時代に訪れていたり、学習院時代の幼馴染の松平節子さんは後に秩父宮妃になる方ですし、正子が経営に関わっていた銀座の染織工芸の店「こうげい」には学生時代の三宅一生が生地に興味をもって足繁く通ったそうです。

それもこれも白洲正子さんの人格ゆえだったのだろうなとこの本を読むと感じます。「いかにかすべき我が心」と悩み、最後に自分の井戸を掘り当てるためには、気になった人に対してはとことん興味を抱き、逆に他人からも愛されるような魅力をもつことが何より大事なことなのでしょう。

いまなぜ白洲正子なのか。まさに「いかにかすべき我が心」と迷う僕ら、そして、迷う日本にとって、いままさに読まれるべき一冊なのではないかと思いました。



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