我々が文章のあたりまえのつなぎ方だと思っている「接続」表現を、列挙の方法は用いない
田中優子さんは「日本には古代末期から様々な列挙の方法が」あり、「それは近世に至るまで、まさにそれぞれの時代特有の機能をもった」ことを述べ、さらに列挙の方法は、時代や、表現ジャンル、表現内容によってさまざまな形式をとったため、ひとくくりにしては言えないがということを前置きした上で、列挙の方法の大きな共通点のひとつとして、上の引用にある列挙という方法の特徴をあげています。
接続詞がつくる関係性
「文章は接続詞で決まる」というエントリーではこんなことが書かれています。接続詞の一般的な定義は「接続詞とは、文頭にあって、直前の文と、接続詞を含む文を論理的につなぐ表現である」というほどのものだが、本書では「接続詞とは、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である」と再定義している。接続詞は必ずしも論理的ではないということでもある。
一方で、田中優子さんの本では「接続詞や接続のための表現は、事柄と事柄を関係づけて論理を構築する」という記述があって、一般的な定義に近い。
また、田中さんは、
これを用いれば相互の言葉の間に、理由、原因、結果、所有、逆説、累加などの関係を表現できるし、複雑な論理関係も表現することができる。
とも書いています。
接続表現は、前の文Aと後ろの文Bに固定した関係をつくる。一見無関係そうに思えるものでも、接続表現を用いることで関係を固定することができる。まさにそれ自体、ひとつの編集作業です。
これは必ずしも話し手、書き手がそうした論理関係を意識して表現しているということを意味しないでしょう。
むしろ、話し手、書き手が意識して使わなくても接続詞や接続表現を使った表現は、聞き手、読み手に前後の文をそういう論理関係において理解させてしまうということだと思います。接続表現を使ったとたん、前後の文は特定の関係のなかに捕えられてしまうのです。
接続詞のない世界
このことがあるから田中さんは次のように続けるのでしょう。しかしこれを逆から見れば、接続詞の文章では、論理的関係がはっきりしないものしか表現できないことになる。
接続詞を用いれば、前後の文の論理関係がひとつに決まり、伝達効率は高まりますが、それは逆から見れば、論理によって結ばれた関係以外が表現できたはずの意味生成の可能性をことごとく捨象してしまっているということにもなります。
だからといって、僕らはもはや接続詞を使わずに話すことも書くことも考えることもむずかしい。田中優子さんの本で引用される平賀源内の文章のように接続表現を使わずひたすら物事を列挙していくような芸当はできません。
接続関係のはっきりした言語表現からみると、関係を限定しない関係の表現ーたとえば列挙表現-は機械の遊びと同じような意味での「意味の遊び」が大きく、極めて不安定にみえる。伝達効率も悪い。にもかかわらず、「取り合わせ」や「間」や「連なり」が意味を形成していくという、論理関係とは異質な意味生成の可能性が、ここにはあった。
僕らが、接続詞のない世界を想像するのはそうたやすいことではありません。
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