引き算のデザイン

以前に引き算のデザインについて書いたことがあります。

でも、どうやら僕はそれをちょっと誤解してたかもしれないなと思いはじめています。



単に機能や装飾要素を削るのが引き算のデザインではない

引き算のデザインは、単に多すぎる機能を削ったり、ごてごてした装飾的要素を捨てるということとは違うものなんですね。次々と機能を足し算して生まれた醜悪なデザインから余分なものを差し引いていきましょうという話とは違うんです。

だって、そうでしょう。携帯電話でも、WindowsのようなOSでも、元のベースデザインに機能をたくさん載せすぎて醜悪になったのなら、後付けである上っ面の機能をそこから差し引いても元になったベースのデザイン以上にはなりません。
しかも、後から足した機能やデザイン要素に関しても必要だから付け足したわけで、それなら単純に切り落とせばいいという話にはなりません。

おそらく発想がそもそも間違っているんですね。

成長には要素の追加は欠かせない

プロダクトにしろ、ソフトウェアにしろ、サービスにしろ、組織にしろ、デザインの対象となるものは、基本的に成長期にあるものほど、機能やコンテンツ、人員などの構成要素は増えることはあっても減ることはありません。

成長期にあるものは、ある成功した基盤のうえに要素を付け足すことでプラスアルファの価値をまとい、外からあきられない魅力を保つことになります。その付け足しによる成長は、その対象物を革新的にみせることさえあるでしょう。

しかし、そのプラスアルファの要素が増え続けると、ある時点で状況が一変します。それまで魅力的で、革新的にさえ感じられていたものが、ある日を境に、みっともない行為に感じられるようになるのです。
そのときにはたいてい基盤となっていたベースデザインはすっかり付加的要素に覆い隠され、見えなくなってしまっています。そもそもの魅力の源にあったものが見えなくなれば、評価が下がるのも自然なことでしょう。

時間は不可逆、いらないものを捨てるはうまくいかない

問題はそうなったときにどうするかです。

僕も「引き算のデザイン」というものを誤解していたように、普通は、そこであわてて余分なものを捨てる処理をしようと考えます。不況になったら突然コスト削減とかいいだすようにね。

でも、それってさっきも書いたように逆行であってうまくいかない。だって、それは改善に努めて付加してきたものを捨てて、改善の余地がある状態に戻そうというわけですから、そんなものがかつてのように評価されるわけはないんですね。
時間はやっぱり不可逆なんです。その不可逆性を無視して、これまで付加してきた機能を捨てようという発想は間違ってるんですね。

引き算のデザインは彫刻的

では、どうするか?

たぶん、いまあるすべての要素を全部含んでも、まだ何かが不足していると感じられるようなベースデザインをやり直すべきなんです。引き算というのは、まさにその不足をつくりだすことなんです、本来は。

多いから要素を削るのではなく、多く見えないようにもっと大きなものから削りだす。これです。

これまで芯材に素材を付け足していく塑造的な方法で造形したのから、素材を削りとる方法で造形していく彫刻的な方法に変えるんです。ただし、できあがったものは塑造でつくったものに含まれた要素とおなじだけのものが含まれた状態にする。その彫刻的発想への転換が本来の引き算のデザインなのでしょう。そして、その掘り上げていく元になる原木が次のベースデザインになるわけです。

塑造的発想から彫刻的発想へ

例えば、その1つの例がiPhoneなんでしょうね。既存の携帯電話のベースデザインのうえで考えるのではなく、新しい携帯電話のベースデザインを考えてしまった。しかも、それはほかの携帯電話と同等の機能をもち、かつ、まだまだいろんなものを載せられる不足感をもっている。これが本来の引き算のデザインなんですね。

あっ、その意味では、もっと象徴的なのは、ボディを1枚のアルミ板の削り出しに変更した新しいMacBookかもしれません。

まさに、量が一定のラインを超えたときに、塑造的発想から彫刻的発想への相転移が起こせるかどうかです。それこそ昨日の「デザインにおける問題意識と解決の方法」で書いた問題発見のセンスとスキルが必要になりますね。当たり前になってしまっているベースデザインを疑い、そこにメスを入れる発想の転換の力が。

よくよく考えてみれば、引き算のデザインの達人であった千利休が行ったのも、そういう発想の転換をともなうデザインだったのですから。

  

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