テクノロジーは人間の身体の拡張として生まれ、デザインがそれに意味を付与する

途中まで読んでしばらく放置していたデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』をまた読み始めました。

そのなかで気になったのが「そもそもデザインとは、明確な意図をもって計画することである」という非常に納得のいくデザインの定義のあとにつながる以下のくだり。

私の理解では、デザインは、テクノロジーによって人間の身体と環境の関係が変わるとき、その関係を調整するものである。テクノロジーは人間の身体の拡張として生まれ、デザインがそれに意味を付与する。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

そもそも、デリック・ドゥ・ケルコフという人は『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』『グローバル・ヴィレッジ―21世紀の生とメディアの転換』などの著作で知られるメディア論の父、マーシャル・マクルーハンの後継者でもあり、そのポジションを示すかのように『ポストメディア論』と題された、この本はテレビやインターネットなどのテクノロジーによって拡張された人間の知覚やそれらのメディアの上で形成された集団的な意識を論じた本なので、テクノロジーを人間の身体の拡張としている点は当然です。

おもしろいのは、新しいテクノロジーによって拡張された人間と環境の関係に変化が見られるとき、そのテクノロジーに意味を付与するのがデザインの役割だとしている点です。
この場合のデザインは僕が普段使っているような意味でのデザインというよりは視覚的デザイン、スタイリングを示す言葉として用いられています。まるで義手や義足によって、そこに手足が存在することを視覚的に示すかのように、新しく身体に連結され知覚を拡張する器官であるテクノロジーの形を認識でるように意味を付与するのがデザインの役目だとしています。

すこし視点は異なりますが「形とはテクノロジーよりも人の機能についてくる」で扱ったマリアン・ベイリーの考えにもつながる見解だとも思えます。

心が必要とするコミュニケーションの一番の相手は、ほかならぬ自分自身の心

では、ケルコフはなぜテクノロジーに意味を付与するデザインが必要かと言っているかというと、次のような一文が先の引用に続きます。

私の考えでは、身体と心の決定的な違いはただひとつ、心は意識的だということである。しかし、心と身体は混ざり合っているため、たとえ理論上でも切り離すことはできない。せめて心は、ある程度自分をとり巻く範囲の全生態系で起きる変化を自覚しなければならない。この作業は必ずしも容易ではないため、ここでデザインが登場する。個々のデザインの価値を観察しながら、心は、テクノロジーで拡張された心の有り様を理解するのである。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

ここでケルコフは、心はテクノロジーがまとったデザインという意味を観察することではじめて、自身の変化を理解できるのだとしています。ようするに身体は知覚してることでも、心はそれに気づかず意識できていないとい部分が人間には多々あるということです。まぁ、そうでしょうね。いちいち知覚の全部を意識してたらたまりませんから。

とはいえ、新たに自分の身体が獲得した器官くらいはちゃんと意識しておく必要はある。で、それにはデザインという外からの意味の付与が、心が気づくためには欠かせないということ。心は自らを外化しないと自分自身の姿、自分自身の変化に気づかないというわけです。これはまさに「わかる」ことは「かわる」ことの一例です。心が必要とするコミュニケーションの一番の相手は、ほかならぬ自分自身の心ということですね。

だからこそ、スタイリング的な意味での狭義のデザインは必要になるんですね。心が自分自身を映しだす鏡として、外部に意味を表現することではじめて自身を知るための手段として、「そもそもデザインとは、明確な意図をもって計画する」必要があるのでしょう。

日本のデザイナーやエンジニアの活躍が期待されている領域

ところで、以上の引用が含まれる章でケルコフは、「間」という観念を大事にする日本に期待を寄せています。

新しいテクノロジーは、デザインの源泉になるより、デザインの対象となるに違いない。さらにデザインは、物の生産より、インターフェース・パターンの探究や創造といった分野で力を発揮することになるだろう。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

これはもうそうなっているといってよいでしょうね。この本が書かれたのは1995年ですから、ケルコフの予測は当たったといっていいかもしれません。

そして、ここでケルコフは「それこそが、日本のデザイナーやエンジニアの活躍が期待されている領域だ」と続けます。

日本的観念である「間」は、現代日本だけでなく世界一般に寄与するところが大きい。「間」は、グローバルな人間文明のある一面の神髄である。「間」を理解し、認識することによって、デザイナーやプランナーは、テクノロジーに侵されて失われてしまった人間固有の大きさや比率の感覚を、とり戻すことができるだろう。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

日本が「間」を大事にしたのは確かです。それは今年の最初のエントリーである「「間」のデザイン」でも書きました。
ただ、残念ながら、ケルコフはいまの日本にはもはや「間」の感覚が失われつつあるのに気づいていなかったようです。
いや、この本を書く以前に来日した当時にはまだその観念はそこにあったと感じられたのかもしれませんが、もはや、それも95年以降に日本でも本格的に力をもったインターネットの影響もあってか、すでに失われてしまったのではないかと思われます。

実際、年々巨大化するテレビのモニターに関して大きさや比率に対する感覚の麻痺、街を歩く際や電車でのほかの歩行者や乗客との身体の距離感の麻痺は、まさに日本人が「間」の感覚を失いつつある、証拠のようにさえ感じてしまいます。

「間」の感覚を取り戻すこと

「間」を理解し、認識することによって、デザイナーやプランナーは、テクノロジーに侵されて失われてしまった人間固有の大きさや比率の感覚を、とり戻すことができるだろう。

確かにそのとおりだと僕も思います。そのためにはまずモノそのものではなく、モノとモノ、ヒトとヒト、あるいはヒトとモノのあいだの見えない空間にある「間」を理解・認識できる能力をもう一度取り戻さなくていけないのかもしれません。

 

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