2008年10月10日

書くスピード、理解のスピード

以前に書いた「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」、「スピードを上げたいなら速度を上げるんじゃなくてスタートを早めること」に続く思考・アウトプットのスピードに関するエントリーの第3弾として。

ブログを書いていてよく訊かれるのは、ひとつ書くのにどのくらい時間がかかるの?ということです。
答えは30分から1時間。

そう答えると、自分とそう変わらないことに安心する人もいれば、無反応の人もいます。
前者は自分でもブログを書いてる人、後者は書いてないか頻度が低い人です。

無反応な人の場合

後者がなんで無反応かというと、30分から1時間と言われてもピンとこないからなんでしょうね。30分から1時間とわかっても、それが早いのか遅いのかわからない。比較対象としての自分の経験がない・薄いから当然です。だから無反応になる。

それでいて、そういう人にかぎって、そのあと根拠もなく僕が文章を書くのが早いということで話を進めたがる。そもそも質問自体が早いですね、で、どのくらい?という流れから出てくるのですが、その答えには無反応のくせして(ようは実感としてわからない)、話を質問前同様に、僕が文章を書くのが早いという前提で進めたがるんですね。

そういう展開になる時点で僕はもう相手の話をあしらうモードに入ってしまいます。
だって相手が僕の回答とは無関係に自分の無根拠な思い込みで話を進めるつもりなら、それに付き合う義理はない。人の話を理解するつもりのない人に、ちゃんと理解してもらい必要のあることなんて話しません。だから、あしらう。おそらく相手もただ思ったことを話したいだけなのでしょうから、あしらいつつも聞いてあげることくらいは時間の余裕があればします。

自分とそう変わらないことに安心する人の場合

反対に、ひとつのエントリーを書く速さ自体は自分と変わらないことを認識できた人は、なぜ僕がブログを毎日こんなような内容で書き連ね続けられるのかという全うな疑問にフォーカスを移します。その人は僕のもつ早さの対象がひとつのエントリーを書く早さではなく、もうすこし大きな塊でみた場合の早さ、たとえば10個のエントリーを書く早さだと気づくんですね。10のエントリーを書く時間はトータル10時間で変わらなくても、それを毎日書き続けて10日で終わらせるか、週に1回で10週間かかるかでは確かに早さが違います。それでそれはなぜか?を知りたがる。

でも僕はその話にも付き合いません。いや、正確には付き合えなかったんです。
というのも、自分でもその回答をもっていなかったからです。

「もっていなかった」と書いたのは「いまはもっている」からです。
今日、ふとその答えがわかったんですね。

理解の早さ

僕のその早さが理解のスピードからきていることに気づいたんです。いや、正確にはスピードがはやいのではなく、理解にいたる確率が高いんです。頻度が高いといってもいい。頻度が高いので一定期間の理解の数は多くなる。それが「早い」ということにつながります。

理解していないことは書けません。理解が浅ければ書くのも苦労します。
つまり書けないのは単に文章力の問題ではなく、理解力の問題なんです。そして、それは情報収集能力の問題でもある。単に気になった情報を集めておくだけでは、それを自身のアウトプットに変換することにはつながりません。収集した情報を即座に理解・解釈しなければ、情報が書く動機・思考のモチベーションになっていくことはないでしょう。理解力に欠けるというのは、情報収集能力の欠陥でもあると思います。

であれば、ブログを書く頻度をあげるには、次々と異なる事柄を理解していく頻度をあげるしかない。

もちろん、これはブログを書くことにかぎった話ではありません。理解が早ければ、仕事をする上でも有利に働くことは多いはずです。あらゆるアウトプットの速度に関わる話だと思ってもらえればいいと思います。

では、どうしたら理解を早くすること、理解の頻度を高めることができるか?
単純なことです。理解の機会を逃さなければいいのです。
そして、理解の機会を逃さないようにするためには、つねに疑問はないかを考える視点が必要になってくる。昨日の「小さな音に耳を澄ます」でも書いた「わかったつもり」になるのを避け「わからない」ことを重視する姿勢です。

理解の場面を逃さない

僕はめったに理解の場面を逃しません。
もちろん、どうやっても興味が持てないこと、ある程度広めに範囲をとっている自分の関心領域、テーマに関係しないことであれば、理解の場面を放棄することはあります。

ただし、いったんターゲットを定めたら、理解のタイミングは一期一会だと思ってその場で理解するよう努めます。
もちろん、その一期は誰か特定の相手の話をするその一回の話のなかであることもあれば、「わかるということ」や「アウトプットのスピード」についてはずっと考え続けているように、長い期間で連続した一期であったりもします。
いずれにせよ、理解できるまではその問題を手放さない。だって、疑問をもてたということは、せっかく理解できるチャンスなんですから。それを「わからない」と投げだす人は僕にはよく理解できない(わかってると思いますが、この「理解できない」は疑問でもなんでもなく「理解したくない」ですw)。

頭のなかで絵や構造図を描きながら、絵や構造を完成させるのに足りないピースを埋めるための質問をします。そうやって自分の頭のなかで理解できたと思えるような文脈の組み立てを完成させていくのです。絵になっていないもの、構造化できていないもの、物語の文脈が筋の通っていない状態のもの、それらは理解できた状態とはいえません。

ここで理解というのは、単に言語的な理解だけをいうのではありません。絵や構造図を描きながらと書いたのは、視覚イメージによる理解も必要だと思うからです。

理解できるまではしつこく質問する

そのスイッチが入ったときの僕の質問はしつこい。
しつこいし、相手が回答に困るような相手の意識の外側にあるものについての質問をします。
ただ、それは答えを教えてもらうための質問ではありません。自分自身で答えを見つけるためのピースを提供してもらうための質問です。他人に教えてもらった答えで安心できるような疑問を自分に課すことはしないようにしています。

それから、しつこいといっても時間がそれほど長いわけではありません。
ちゃんと頭のなかで仮説を絵や構造図で描いていれば、ひとつの質問で自分が知りたいことの多くの回答が得られます。
もちろん、仮説はひとつだけもつのではありません。理解が浅い段階ならいろんな可能性を考慮して、そのどれが相手の頭のなかにあるイメージに近いのかが判別できる質問を組み立てて、相手と僕の頭のなかの絵や構造が一致させられる方向を探ります。

理解のプロセス


小さなデザイン

他人との会話、本やWebサイトを通じた情報収集、そして、人びとの行動やその背景を観察すること。そうした無数の情報をインプットするなかで、自分で理解・解釈するための情報編集により構造を組み立てること。僕はこれを「小さなデザイン」と呼びたいと思っています。

長くなりますので詳しくは別の機会に譲りますが、これは「「見る・考える・作る」の三位一体」で書いたところともつながる話で、何かものづくりをする過程全体のなかには無数の小さなデザインがあるということです。あるいは、あらゆる仕事のなかには無数の小さなデザインが必要ということもいえるでしょう。

理解=情報を自分の身で引き受ける行為

このブログではずっと書き続けていることですが、見る・聞くという行為は単なるインプットではなく、それ自体、創作的行為です。

古代においては、「見る」という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。
白川静『初期万葉論』

白川静さんが論じる初期万葉の時代においては、見るという行為自体が自然の霊性・生命力を身体内部にうけとるための魂振りの儀式としてあったといいます。
これは以前紹介した土橋寛さんの『日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで』で描かれた生命力を強化する目的の花見・山見にもつながります。

春の初め、山に躑躅(つつじ)や石楠花(しゃくなげ)が咲き始める頃、村の老若男女が近くの山に登って、共同飲食をし、歌ったり踊ったりする年中行事を「花見」というのは、山の花を「見る」ことが行事の中心であったからで、花見はタマフリの効果があると信じられたのであり、花見をすると、年寄りは中風にならぬという所もあった。

ここまで来るともはや僕たち現代人にとっては理解を超えたレベルでの理解=自分の身で引き受ける行為となります。だって、中風が利くくらいに見た情報を引き受けるわけですから。ここまでいかないまでも理解というのは情報を自分の身で引き受ける行為だと認識することは必要だと思うのです。

たとえば、せめてこのくらいまで情報を身に引き受けられるまで、僕らの情報認識力が回復すればいいんですけどね。

京都の染め物屋の例なんですが、染めた物を乾かします。いまはどうかわかりませんが、「風が吹いているから乾く」とは思っていないんです。実は母もそれを知っていました。だから、洗濯物は「今日は風があるから干そう」ではなくて、「何々の風が今日はあるから色物の乾きがいい」とか「ネルは、比叡山からおろしてくる風のときには、いくら晴れているからといって乾かない」とか言ってましたね。結局、いまや僕も含めて、みんなも風が読めないと思うんです。洗濯物は太陽があって風があればすんでしまうという感じでね。

風が読めるくらいに。そして、小さく鳴る遠くの風鈴の音が聞き分けられるくらいに。

見る・聞く行為には必ずフィルターがかかってしまう

話がそれました。

見る・聞くという行為を単に外部刺激を受動的に受けとるものとしてとらえるのではなく、外部の情報と反応する自分のなかの情報も含めて編集的に解釈する理解の過程こそが見る・聞くという行為だととらえるべきなのです。


それに、どのみち人はあるがままを見たり聞いたりしてるわけではありません

どのような形の見る・聞く行為でも、結局、そこでは見る人・聞く人それぞれのフィルターがかかっています。そのフィルターは物事を見えるようにもすれば見えないようにもします。「WHATとHOWのあいだの"溝"」で書いた知識が理解の邪魔をする話とおなじです。

よくよく考えてみると、知識というのは私たちと世界との間を切り離しているものでありながら、その知識をうまくつかうことができさえすれば、私たちと世界がつながることを約束してくれるという矛盾した性格をもっている。

理解できないのはフィルターがあわないからです。知識というフィルターが「私たちと世界との間を切り離して」しまっているのです。

であれば、意識的にフィルターの交換をして「私たちと世界がつながることを約束してくれる」状態を探し当てるという編集的スキルが必要です。

理解を損なうフィルター、理解を助けるフィルター

まずは知識というフィルターにも理解を妨げるフィルターと理解を助けるフィルターがあるのを知ることが大切です。と同時に、自分が意識しようとしてなかろうと見る・聞く・感じるという行為そのものになにがしかのフィルターがかかってしまうことは避けられないことを認識する必要もあるでしょう。

相手の話を聞くなどの情報のインプットを行いながら、さまざまなフィルターを交換することで頭のなかの仮説をパズルのように組み立てていき徐々にこれだ!という理解に近づけていく。それには、これまでも書いてきたような構造化=モデル化の技術とともに、構造を組み立てる視点の切り替えとしての意識的で自在性のあるフィルターの取り換えスキルを身につけていく必要があるのです。そして、それには「発想の自由度を高めたければ過去に学ぶ必要がある」のです。

いずれにしても、まずは「わからない」ことを積極的に見つけ、疑問視することができなければはじまりません
何より、それが理解のスピードを上げるための第一条件なのですから。

さて、僕がこれから分析していこうと考えている小さなデザインとはまさにその編集スキルに関わるものとなるはずです。
それについてはまた別の機会に。

   

関連エントリー
posted by HIROKI tanahashi at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック