小さな音に耳を澄ます

人は何を見て何を聞いているのか?

人それぞれで物事を見る目や、話を聞きとる耳にはだいぶ差があるなと感じています。

写真を撮るのでもあらかじめ自分でこう写したいというイメージがあって撮る人と、なんとなくシャッターを切ってできた写真をみて「きれいだ」「うまく撮れた」と判断する人では、そもそもの被写体がどのくらい見えているかに差があります。

あるいは、他人の話を聞くのにも、ちゃんと相手の話の構造を聞き取りながら、相手が何を言おうとしていて、実際に話す内容のなかに相手が口にしていないことを自分の側から質問して答えてもらうくらいの聞き方ができる人と、単に相手の口からでた言葉を追っていて、相手が何を言ってるかは理解できない聞き方ではまったく違います。

物を見るのでも話を聞くのでも、あるいは情報を収集し取捨選択をするにしても、その個人差というのは実はとてつもない格差があることをはっきりと感じるようになりました。

見ている自分、聞いている自分を客観視する

とにかく物が見えてない、他人の話が聞けない人というのは、結局、自分が何を見ているか、何を聞いているのかの意識がとてつもなく低いんですね。

見るとか、聞くとかいう行為が意識的な行為になっておらず、ただ目から入ってくる光や耳から入ってくる振動に単に身を任せて、脳がなんとなく反応するのを受動的に待っているだけにすぎなかったりします。
ようは流されるままで、そこに自分の意志はまったくない。自分で判断してるつもりでも、その判断の流れはきわめてオートマティックだったりします。

実は意識的に物を見る、話を聞くためには、自分の見る・聞くという行為そのものをいったん客観視する必要があります。見ている自分、聞いている自分を外から見て、自分がどう物事を見ているのか、聞いているのかを疑ってかかる必要がある。自然に見たり聞いたりしてしまうのではなく、自然と見てしまったり聞いてしまったりする自分をすこし外側の軸に意図的にずらしてあげる必要があります。

深澤直人さんが「環境」を捉える視点などはそれに近い。

深澤 自分は、昔は自分の身体の外側、自分をさておいた何かを「環境」と定義していましたが、のちに自分も他人もすべて入った入れ子状態のものを「環境」と定義し直しました。

この自分を含めた「環境」を見るというのは、見る・聞く自分というのを環境のなかでの相互作用として外から眺めている状態です。見る・聞くというのを人間の自発的な行為というよりも環境との相互作用のなかでのインタラクションだと捉えて、それを客観視している状態です。
自分の感性を信じたければ、こんな風に客観的に疑ってかかったうえで信じるくらいの強さをもたなきゃダメでしょ?

これができないと、自分が何を見ているのか、何を聞いているのかを意識しながら、物事を見たり、他人の話を聞いたりということができません。

先入観や固定観念に固執し過ぎると、目の前に存在しているものが見えなかったり、環境の変化に気づかなかったりするものだ。

まさにこの状態に陥ってしまうのですね。

目を閉じて耳を澄ます

「目を閉じて耳を澄ませば・・」
僕がこの言葉で思い起こすのは、神社で手を合わせるときのことです。

神社やお寺で目をつぶり手をあわせて拝む。
そのとき、何かを念じるということが多いと思いますが、僕自身はそのとき目をつぶってみてはじめて聞こえてくる音に耳を澄ますようにしています。ときにはまわりの人びとの話し声にまじって鳥の声が聞こえたり川の流れる音、木の葉が風に揺れる音が聞こえて結構楽しめます。

日本では古来、神の訪れは音連れでした。小さな音に神の音連れを感じたのです。季節の変化を音で感じたのかもしれません。昔の人はもうすこし音に関する感性的な知が優れていて、どの音が何の前振れかを知っていたのでしょう。
もちろん、僕にそんな力があるわけではないのですが、目をつぶって手をあわせているときに自分が念じる声を聞くよりも、耳から聞こえる音に耳を澄ませていたほうがその場にすっとはいりこめるような気がするのです。聞こえてくる音が何の変化をあらわす音連れなのかなんて僕にはわかりませんが、目を閉じて聞こえてくる音に耳を傾けているだけでも自分の邪念にふりまわされた状態からは解放されます。

小さな音に耳を澄ます

神とは情報そのものです。古来の日本においては、鳥や水や風が情報としての神を音とともに連れてきたのでしょう。

情報収集というのはそういうものだと思います。

元より自分が知っている情報に何度も触れて安心したいだけなら自分の声に触れていればいい。でも、自分の外に出るには、自然な状態では聞き逃してしまうような小さな音にこそ耳を傾けることが必要だと思います。自分の立ち位置を変えて、普段とは異なる音に耳を傾ける、目を向ける。そういう意識的な軸の変更をしなくては、たくさんのものを見落としてしまうし、聞き逃してしまいます。

わかりやすい大きな音ばかり聞いて、バナナダイエットしたり金融問題に関心をもったりすることが情報収集ではありません。

大きな音は確かに情報内容がはっきりしてわかりやすいかもしれません。耳を澄まさなくては聞こえない小さな音は無数の小さな音たちといりまじってひとつひとつを聞き分けることもむずかしいでしょう。でも、それが人間が情報に触れる本来的なあり方だと思うのです。

わかりやすい情報だけに身をゆだね、わかったつもりになっていないか?

音同士が重なりあってデジタルに分割した状態での記録ができない状態に触れることのほうが正しい情報への接し方ではないかと感じます。

たとえば、三味線の音は五線譜に記載することはできないそうです。
音の重なりが多くてデジタルに音を分割できず、五線譜の上にのらないのだそうです。譜面に残せないのですから、曲を伝達しようとすれば、直接耳で聞き分けてもらって伝えるしかない。面倒ではありますが、人間ならできないことではありません。そういう情報伝達の形はもっとあっていいはずです。

わかりやすい情報に飛びつきすぎなんだと思います。
外から大きな音で聞こえてくるマス情報、あるいは自分の頭のなかで鳴る自分の心の声。そんなわかりやすい音ばかりに関心を向けていると、実際はまわりにたくさん存在している小さな音を聞き逃すことになるのではないでしょうか。

そのなかには大事なものの音連れを伝える音がたくさんあるかもしれないのに。

わかったつもりが、ものわかりの悪さの本当の原因

わかりやすい大きな音を聞いてるだけではわからないことも、小さな音に耳を澄まして聞き分けることで文字通り分かることがたくさんあるはずです。

遠い風鈴はいまなお鳴っているはずなのである。ただし、その声や音は時を追うごとにまことにフラジャイルになっている。よほどにその「弱音」に耳を傾ける必要がある。いや、もはや大声によるプロパガンダを拒否し、あて小さな声に耳を傾ける時期が来ているようにおもわれる。


当たり前のことなのに多くの人が気づいていないことがあります。わかるためには、いったんわかっていることの外にでて、わからないものがある場所にいかなくてはいけないということがそれです。
わかることを邪魔するのは何よりすでにわかっていることです。
人は疑問を感じてわかろうとしないかぎり、わかることはできませんが、その疑問をもつことをわかっていることは邪魔するのです。

見ている自分、聞いている自分を外から見て、自分がどう物事を見ているのか、聞いているのかを疑ってかかるというのは、まさに自分がわかりやすい情報だけを見たり聞いたりしてわかってるつもりになっているのではないかと疑うことです。
これは昨日書いた「発想の自由度を高めたければ過去に学ぶ必要がある」にもつながる話です。自分の見方、聞き方を客観視するためにも、過去の人びとの見方・聞き方を参照するのはひとつの有益な方法ですので。

目に写る全てのことはメッセージ

いずれにしても、以前にも書いたとおり、「わかっている」こと以上に「わからない」を自分の身で引き受けることのほうが大切なんです。

外を意識すること。
わかっていること、あるがままの状態であることの外側に意識的に身を置いてみること。


自分の思考力を高めるためには、まずそこが大前提になってくると思います。

そして、その前提に立てたのなら、2年以上前に書いた「やさしさに包まれたなら」というエントリーで書いたように、「やさしさに包まれたなら」「目に写る全てのことはメッセージ」になるんです。
小さい頃に神様がいるのはきっと小さな音にも好奇心をもって耳を澄ませられるから。そして、大人になっても「やさしい気持ちで目覚めた朝」なら、そんな奇跡も起こるんですねw

  

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