WHATとHOWのあいだの"溝"

忙しい。なんとなく10月中はまともにブログを書く時間もとれそうにないなという予感がします。
とはいえ、まともではないにせよ、何かしら書いていくことで、思考の軌跡くらいは残しておきたいな、と。

というわけで、ちょっと雑ながら今日も1つ書いてみようか、と。

今日書くのは以前に「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」として書いたことに近い話。ある意味では、インタラクティブ・システムのUIデザインにおいて何故、人間中心設計が必要かという肝の部分の話です。

自動車の設計なら人間中心設計プロセスは必要ない

まず、最初にはっきりとさせておく必要があるのは、本来、コンピュータのようなインタラクティブ・システムでない限り、人間中心設計プロセスというのは必ずしも必要ないということです。

自転車もそうですし、もうすこし複雑な機械である自動車でもそう。

たとえば自動車のばあいは、ユーザーにとってはWHAT(どうしたいか)はオートマチック・ハンドルを介してすぐにHOW(どのようにするか)につながるようになっている。だから、ドライバーは、ハンドルさばきとアクセルとブレーキだけで自分のおもうように自動車を動かすことができる。

という具合に、ハンドル、アクセル、ブレーキという操作のためのインターフェイスは、人間の意志・行動が機能にダイレクトに結びつくため、使い方がわからないというレベルのユーザビリティの問題は生じません。ユーザーにとっての問題・使用の目的がダイレクトに実際の機能に結びつきます。
カーナビや電子パネルなどのインタラクティブ・システムの部分を除けば、人間は車にダイレクトにつながっているといえます。

こうしたダイレクトなつながりがある分には、実は人間中心設計を使わなくても、まともなデザインはできます。自転車、自動車はそのたぐい。
ましてや、インフォメーション・グラフィックスなどのグラフィック・デザインの分野では本来、人間中心設計プロセスなどなくても問題ないのです。だって、グラフィックはユーザーが勝手に理解するだけで、グラフィック側は理解しようとしまいと動かずそこにあるだけですから。グラフィックのフィードバックは情報が示すモノ自体がしてくれるのですしね。

もちろん、それはユーザーのことを考えなくていいという話ではなくて、人間中心設計プロセスの大げさなプロセスを使わなくても理解・想像できる範囲の配慮や、プロセスを使っても配慮できない情緒的な心配りの部分で努力すればいいという意味です。

電子文房具

一方、人間と機能のあいだにコンピュータが入り込んだインタラクティブ・システムではそうはいきません。

電子文房具もこのようにしてみたい。けれども電子文房具では、このWHATとHOWのあいだには2つのアルゴリズムが介在して、WHATとHOWの接近の邪魔をしている。「人間のアルゴリズム」(思考)と「コンピュータのアルゴリズム」(計算)というものだ。

こう書いて、松岡正剛さんは、こんな流れを示しています。



簡単にいうと、インタラクティブ・システムを機能させる(使えるようにする)ためには、人間はシステムをUIを介して理解し、システムはUIを介して人間を理解できるようにしなくてはいけないということです。
システムは人間が決められたとおりに操作してくれないと動きませんし、人間はシステムが自分のやりたいことをどう操作すればできるかを示してくれないと操作できません。

WHATとHOWのあいだの"溝"

ここに"溝"が生じる隙間があるんですね。

この流れでは「人間のアルゴリズム」と「コンピュータのアルゴリズム」のあいだにはっきりとした"溝"が生じている。コンピュータ屋はこの"溝"に苦労する。その相性がうまくつながらない。では、その"溝"の正体は何かというと、それこそがじつは「知識」というものなのである。

これは他の人に仕事をたのむよりも自分でやってしまったほうがラクな場合があるのに近い。理解する頭が2つあるよりも、1つの方が理解そのものはスムーズです。「知識」が溝になりうるのはそのためです。

コンピュータの基本性質からして、正確な選択が行われる必要があるのですが、その正確な選択を判断するアルゴリズムが人間の側とコンピュータの側で2つ存在してしまっているのが問題なんですね。2つの知識が噛み合わない。その相違がインタラクティブ・システムの全般のユーザビリティの問題なわけです。

正しい選択の認識を一致させる

これを理解していれば、自動車などの使い勝手の問題を人間中心設計で解決できるはずだなんていう話にはならないですし、逆に、なぜコンピュータの設計を自動車などのデザインと同様にはできないかもはっきりするはずです。

自動車のハンドルは多少不正確にまわしても他のアクセルやブレーキとのかねあいでどうにもでもなるし、不正確でも動かないということはなく、曲がりすぎたとか足りないとかいうフィードバックが明らかで修正もすぐに可能です。

インタラクティブ・システムにないのはまさにその融通です。
正しい選択があってはじめて動作するものでありながら、その正確な判断というものが、人とコンピュータのあいだでも、人それぞれでも異なってしまうのでやっかいなんです。いかにして、人間とコンピュータのあいだで、「正しい選択」というもののの認識を一致させるかが問題なんですね。

インタラクション・デザインとは何をすることか

コンピュータ屋が苦労するその"溝"は、あらゆるインタラクティブ・システムのデザイナーを悩ませる"溝"であるはずです。
もし、それに悩んでいないデザイナーがいるとしたら、いったい、何をデザインしてるつもりですか?と訊きたくなりますね。

インタラクション・デザインというのは、そのWHATとHOWのあいだに生じてしまう"溝"をいかにして埋めるかということであり、それにはユーザーの問題・目的が理解できてないとだめだし、コンピュータ側のプログラムとその実行のためのアルゴリズムが理解できていないとだめなわけです。それなのに、どいうわけか、日本でデザイナーというと、こういうシステム設計的な発想がないんですよね。やっぱり何をデザインしてるつもりなんだろう?って疑問に思います。絵を描くんじゃなくて動くものをつくらないと。

どうも人間中心設計プロセスをこういう基本的な問題からちゃんと理解できている人が少なくて困りますね。本質を理解しての拡張はありだと思いますけど、本質の理解を欠いた拡張的利用はむしろデメリットのほうが大きいか、と。特に話題先行の感のあるペルソナは要注意ですね。

おっ、意外と書けたな。



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