『論語』にいう温故知新です。
「温め」というのは単に温めて保っておくということではなく、ただ知っているだけというのでもないそうです。熟知し、理解し、心得ていることを指すのです。
古典を学び、歴史を学び、深く理解していることだと、田中優子さんは『江戸を歩く』に書いています。
「しかしそれだけでは人を指導することはできない」とも田中さんはいいます。「以て師為るべし」となるためには「故きを温め」るだけでは足りないのです。
今のことをアクチュアルに骨身にしみてわかっていることが必要なのだ。これは学問の神髄である。「学びて思はざれば即ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば即ち殆(あやう)し」-これも神髄である。知識をため込んでいても思想がなければ何にもならない、といっているのだ。しかし逆に、義憤にかられようと世の矛盾に苦しもうとどんなに多感でものをよく感じ考えようと、知識がなければ危ない、といっている。両方なければ知性とはいえないのである。
温故知新の「両方なければ知性とはいえない」のです。ごもっとも。
possibilityとactuality
ただし実際は、思想だけあって不勉強で知識に欠ける人、知識だけあってアクチュアルな思想を持たない人のいずれかの、バランスを欠いた人が多い。しかも、双方がたがいに他方を馬鹿にするような風潮もあります。情けない。彼らはさまざま勉強していたが、知識だけでは意味がないこと、試験に受かって出世しても学問したとはいえないことを、学んでいた。
何のために勉強するのか。単に知識を得るためか? 出世するため? 大学に受かるため? 確かにそういうことだけで満足しているなら、その人からはきっと知性のかけらも感じないでしょうね。
ここでいう「彼ら」とは、戦争がなくなった世で「戦うことより戦争を起こさないことのほうが重要」と理解していた江戸時代の武士たちを指しています。
彼らは、
人になるとはどういうことなのか。
を学んでいたのです。
哲学を欠いた学問は学問とはいえない。
僕は、学ぶとか考えるとか活動するとかいうことには、possibility(可能性)とactuality(現実性)の両方のバランスを保つことが重要だと常々思っています。哲学というactuality(現実性)をもたない学問を確かに学問とは言えないし、逆に知識に基づくpossibility(可能性)の追求欠いた活動は何かを為すための活動としては単なる惰性的な行動として思えません。
温故知新。故きを温め新しきを知る。
それは歴史のなかにある可能性といまここにある現実性のあいだで何を為すことで人になるのか。それを考えることでなのでしょう。
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