江戸を歩く/田中優子

この本を読んで、「江戸」というのは特定の時代を指す言葉であると同時に、特定の地理的場所を指示していた言葉であることに、あらためて気づかされました。

いまは東京と呼ばれている場所が、かつて江戸と呼ばれた場所でもあるということは、もちろん知識としては知っていたわけですけど、自分のなかで普段暮らしている東京と浮世絵などに描かれた江戸が地理的におなじ場所として重ね合わせられていたかというとそうではありません。かつて江戸と呼ばれた場所があるのを知りつつも、それがいま自分が歩いているこの場所にあったことを実感したことはなかったと思います。



江戸の範囲、江戸の設計

ひとつの発見は、僕は実際、地理的な意味でも江戸に住んではいないということでした。

どこまでが江戸なのだろうか? 江戸時代の人々の江戸の境と、私たちの時代の東京の境とは異なる。江戸には墨引きと朱引きの二通りの境があるが、その朱引きが江戸の範囲内といっていいだろう。東は隅田川を越えて、荒川流域の四ツ木や平井、北は板橋、千住、西は落合、代々木、南は品川あたりまでが朱引きの範囲となる。
田中優子(写真・石山貴美子)『江戸を歩く』

僕が住んでいる場所も、働いてる場所も、江戸の外の場所です。住んでいる場所は品川の先にありますし、働いている場所も微妙の落合の外にある(もしかするとギリギリ江戸か?)。その意味で、僕は毎日、江戸を通り抜けて仕事に行っていることになります。
具体的な朱引きされた江戸の範囲はこちらに。当時の海岸線も示されていて、どこがかつては海だったかもわかっておもしろいです。

ところで、この本はいちお江戸のガイドブック風になっています。
タイトル通り、田中優子さんが「江戸を歩く」んです。
東京を歩きながら江戸を歩いているという本で、そのはじまりは千住小塚原回向院、そして終わりは鈴ヶ森刑場跡になっています。つまり、始めも終わりも刑場で、かつ、それは江戸の郊外にあるのです。東と西の刑場のすこし内側には、吉原の遊郭と品川の遊里があった。さらにその内側では、上野の寛永寺と芝の増上寺が対応し、ともに天下祭と呼ばれる神田祭を行う神田明神と山王祭を行う日枝神社があります。

江戸城をまん中にして、もっとも広大な面積をもつ寛永寺が東北に位置し、しかも浅草寺とのあいだはぎっしりとまた別の寺で埋め尽くされている。つまり寛永寺・浅草寺のかたまりが東北にあるのだ。そして江戸城をはさんでちょうど反対側、南西のほぼ同じ距離に増上寺がある。寛永寺ほどではないにしても、江戸時代の寺域は今よりはるかに面積が大きく、芝公園、東京プリンスホテル、東京タワーを入れてもまだ足りない。こうして鬼門である東北とその反対側に巨大な寺をしつらえることで、江戸と江戸城を守っているのである。さらに、増上寺が南にずれているその方向を修正するかのように、外堀に沿って山王社が建てられている。江戸城をはさんでちょうど反対側、同じような距離の、やはり外堀(神田川)近くに、神田明神がひかえている。
田中優子(写真・石山貴美子)『江戸を歩く』

この引用のみならず、この本を読んでいると江戸というのがたくみに設計された風水都市だったことがわかります。

「風水で守られた平安京と同じ構造に仕立て上げ」られた江戸は、その中心である江戸城は東に大手門(正面の入口)を置き、南の門をあえて虎の門と名づけることで、富士山のある西をあえて北として読み取れるようにしています(平安京は中国の都に倣って帝は南面するので南が正面。大手門を東に置くのも、白虎で表現される西をあえて南の門を虎の門と名づけることで、方角をずらしている)。
ただし、本当の北の位置には日光東照宮をおいて風水を完成させていたりもする。見事な設計というしかありません。

江戸のおもかげ

それにしても、増上寺が「芝公園、東京プリンスホテル、東京タワーを入れてもまだ足りない」というのも驚きですし、かつては上野の山一帯が寛永寺だったというのも、いまは想像できません。
「日本橋と浅草は江戸文化の基盤であった」というが、いまの東京では浅草はまだしも日本橋にそんな活気ある風景は見られません。遊郭と芝居町ははじめ日本橋にあり、その後、浅草に移っていきました。

歌舞伎は女性芸人と遊女にとって起こったが、1629(寛永6)年、幕府は女舞・女歌舞伎を全面的に禁止した。1632年、吉原の夜間営業を禁止し、同じ年に猿若座が、ここ葺屋町、堺町に移転して「芝居町」が成立したのである。じつはこのころ、人形町通りを隔ててこの芝居町の向かい側に吉原遊郭があった。すでに1617(元和3)年に開設されてから15年がたっている。この芝居町ができた1632年から、こんどは吉原が今の千束に移転する1657(明暦3)年までの25年間、ここ人形町は遊郭と芝居町を抱える一大遊興知だったのである。
田中優子(写真・石山貴美子)『江戸を歩く』

もちろん、いまの人形町にそんなおもかげはすこしもありません。千束に移った吉原遊郭は廃止されましたし、葺屋町、木挽町、猿若町と江戸の三座と呼ばれた芝居町は、いまや木挽町(現在の銀座四丁目)の歌舞伎座を残すのみです(正確には、いまの歌舞伎座は明治政府が公的につくったもので、むしろ江戸三座とは敵対関係にあるとさえいえます)。

普通に歩いていても、江戸のおもかげを感じさせるような気配はいまの東京にはないのではと思います。そこは歩くだけで歴史を感じさせるところが数多く残る京都とは違うところでしょう。

この本では石山貴美子さんによる写真は、そんないまはもう東京が忘れてしまった江戸のおもかげを見事に切り取っていて、その写真が語る江戸を田中優子さんの魅力ある文章が補足するようになっています。

江戸と東京の断絶

ところで、一番最初にのせた写真は、門前仲町にある富岡八幡宮の背後に巨大なビルがそびえている異様な景色を石山貴美子さんの写真が捉えたものです。

田中優子さんが書いているように門前仲町といえば、東京でも数少ない江戸の風情を伝える場所だといえます。富岡八幡宮は、かつてこのあたりが永代島と呼ばれていたとおり、もともと島であり、八幡様はこの島に祀られました。いまはまわりは埋め立てられても、その社殿と鳥居は海の方角を向いています。

その背後にビルがそびえたっているのです。
田中優子さんはこう書きます。

私はパリを思い出していた。歴史を表現するパリの核の部分には高層ビルを建てさせない。高層ビルは周辺の決まった地域に建てられている。そういう配慮は東京にはない。その象徴に思えた。
田中優子(写真・石山貴美子)『江戸を歩く』

よく東京は400年都市と言われたりします。江戸開府から数えてのことでしょう。
でも、はたして本当にそう言えるのかと考えたくなります。明らかにいまの東京はかつての江戸という都市とは断絶しているように感じるからです。
すくなくとも、僕にはこの本で田中優子さんが紹介してくれるような江戸を歩いた記憶はありません。それは京都とも違うし、パリなどのヨーロッパの都市とも違うでしょう。歴史を表現するという「配慮は東京にはない」のだと思います。

むしろ、東京というのは明治以降に新しくできた都市であり、その歴史はそれ以降のものではないでしょうか。あるいはそれは関東大震災以降の歴史といってもよいのかもしれません。

とはいえ、石山貴美子さんが写真に写しとってくれているように、目を凝らせば、そこに江戸のおもかげはまだ残っているのだろうとも感じました。歴史を表現する配慮が東京にない以上に、むしろ歴史を見る目が僕らに欠けているのかもしれません。

そんなことを思いつつ、この本を片手に江戸を歩いてみたくなりました。



P.S.
それにしても、田中優子さんの本はこれまでここで紹介したものだけでも『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』『江戸はネットワーク』『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』の3冊、そして、この本とまだ書評を書いていない『江戸の恋』も加えると5冊読みましたが、とにかく面白いです。
江戸というテーマにそんなにすごく興味があるわけでもないのですが、田中優子さんの文章が読みたくて、どんどん読んでしまいます。手元には『芸者と遊び』、『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』、『江戸の音』の3冊がありますが、これも続けて読んでしまいそうです。



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