「見る・考える・作る」の三位一体

「考える」とはいったいどういうことなのか? 最近、そのことをよく考えます。

きっかけは8月末の「横浜ワークショップ2008」で寺沢先生がデザインのプロセスを「見る・考える・作る」と簡潔に表現されたのを聞いたことです。



ふむふむ、わかりやすい、と思って聞いていたのですが、後日自分なりに咀嚼しようとしてみて、ふと「見る」と「作る」のあいだにある「考える」って、いったい何なんだろう?と感じたんです。

「考える」は「見る」「作る」のなかに埋め込まれている

考えれば考えるほど、僕には「見る」と「作る」のあいだに「考える」がないように思えます。ないというのは「考えていない」ということではなくて、「見る」もしくは「作る」のなかに「考える」は入り込んでしまっていて、「考える」が独立してあるようには思えないのです。

具体的な作業プロセスで考えてそうなんです。
「見る」というのを聞くことなども含めたインプット、「作る」というのを中間成果物や他者とのコミュニケーションのための発言も含めたアウトプットと考えると、その中間に「考える」という活動を独立して捉えることができなくなります。

一見、インプットとアウトプットのあいだに何らかの処理が頭のなかで行われていると考えるのは自然なことのように思えますが、言葉で考えるにしても、イメージで考えるにしても、頭のなかで言葉や像を操ること自体、実はアウトプットです。具体的な他者にアウトプットする前に自分の意識に対してアウトプットしているんです。
もう一方で「見る」ということ自体、単に外の世界にあるものをそのまま見ているわけではないし、情報の取捨選択が行われていれば、それと同時に解釈も行われているはずです。なんらかの意味=差異=価値を見いだせなければ、見たものは意識に乗っかってはこないはずです。

その意味で、感覚的には「見る」こと自体が考えることだし、「作る」こと自体が考えることなんです。
「見る」は外部にあるものを素材にし、「作る」は自分の内から出るものを素材にした、思考活動にほかならないと僕には感じられるのですね。

モデル化と物語化

そのあたりで昨日の「言葉を形にして理解する(あるいは、テーブルにもいろいろある))」で書いた話とつながってくるんですね。そこでは図表(テーブル)を描くモデル化の作業そのものを思考過程としてみていますし、他人が話す言葉をテトリスのブロックのように見立ててその組み合わせを瞬時にみてとること自体がインプットのなかにすでにモデル化を含めている見方になっています。

以前も「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」というエントリーで、〈アウトプットが1つもないことを「考えた」とは言いません〉と書きましたが、まさに紙に描かれた図表なり絵なり、言葉として書かれた文章なりで、考えた内容をあらわしてはじめて「考えた」ということになるのだと思います。あるいは、何かを見て理解したという自分の頭のなかで「理解」というアウトプットをつくりだす行為が「考える」になるのでしょう。

ただ、1つだけ昨日のエントリーに書かなかったことがあるとすれば、それは「考える」方法にはモデル化の方法のほかにもう1つ、物語化の方法があるということでしょう。

  • モデル化
  • 物語化

この2つが具体的に物事を考える方法なのだと思っています。モデル化については、昨日の続きで考えていきたいと思いますし、物語化の側もすでに「アイデア・素材・表現(インフォグラフィックス・ワークショップ 1に参加して)」で「物語化の5つの要素」に触れたように自分の課題として今後捉えていこうと思っています。

テトリスのブロックは落ち続けている

さて、もう一度、「見る・考える・作る」というはじめの話題に戻りましょう。

僕は「作る」という活動は「創造」ということとは別のものだと思っています。
物を作るのでも人間は結局、既存の素材を人工的に加工して、別の形・別の物として認識可能な形態を生みだしているだけですし、物語や絵にしても決して何もないところから何かを創造しているのとは違います。アウトプットといっても、それは自分のなかから何かを出しているというよりも、あくまでインプットという名の取材=調達活動で得た材料を加工・組み立てなおして提示しているだけです。

そう考えれば、単に外にあるものを見たり聞いたりする活動における解釈と、いわゆるものづくりで作られる物や創作活動での作品のあいだに、程度の差はあっても本質的な違いはないとみたほうが自然なような気がするのです。

じゃあ、創造の代わりに、僕ら人間が何をしているのか?というと、それが昨日のテトリスの話につながります。
僕らはきっと無限に落ちてくるテトリスのブロックの方向を常に回転させて、適切だと思われる場所に配置し続けているのでしょう。
もちろん、このテトリスにははじまりがありません。ブロックが空の状態でゲームがはじめらるわけではなく、かつ、すべてのブロックをクリアするといった終わりもまた明確ではありません。

じつはわれわれは情報の前で白紙にはなれないはずなのである。すでに、情報は編集途中の状態でわれわれの前に投げ出されているはずなのだ。
松岡正剛『知の編集工学』


「見る・考える・作る」の三位一体

結局、人間は見たもの、聞いたものをそのままの形では受け取ることができないのですから、見ること・聞くこと自体が実は「作る」ことにほかならないし、その「作る」という行為自体が「考える」になるのだと思います。

「見る・考える・作る」というのは本当は順番にこなすプロセスなのではなくて、同じ活動を別の視点からみた三位一体の見え方の違いなのではないかと思うのです。人間が外界に触れ合うこと、情報に触れること自体が「見る・考える・作る」の三位一体の活動を引き起こすのだと考えた方がいいのではないかと思うのです。つまり、そこでモデル化するか、物語化するか、あるいは、しないかというのは、外部に接する意思があるのか、自分のなかに引きこもるかの違いしかないのではないでしょうか?

情報は、ひとりでいられない

外部に接する意思をもつ人間であれば、何がしか自分で解釈を行わなくてはなりません。状況に参加するということ自体が「見る・考える・作る」と無縁ではないのでしょう。
それを松岡正剛さんは「編集」と呼んでいるのであり、なぜ人間が編集を行うのかという理由を「情報は、ひとりでいられない」という言葉で表現したりするのでしょう。



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