江戸百夢―近世図像学の楽しみ/田中優子

『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』『江戸はネットワーク』に続いて、田中優子さんの『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』を読みました。

この本で、田中優子さんは、応挙の写生、琳派のリアルから東照宮の幻想まで、そして江戸にとどまることなく同時代のベルニーニのエクスタシーからフェルメールが描いたデルフトの新興市民まで、タイトルどおり100枚の絵図を通じて、前近代にあった近世の世界を読み解いています。まさに図像学=イコノロジーです。サブタイトルに「近世図像学の楽しみ」とありますが、本当に楽しめました。

「百」の世界、尽くしの世界

この本の魅力はなんといっても、その100枚の絵(写真含む)です。
そして、その1枚1枚の絵に寄り添うように書かれた田中優子さんの近世の世界を切り拓く文章。

「百」のついている世界は、「集まる」世界だ。蝶は博物学的写生帖の中では一匹ずつ描かれるが、「百」の世界ではすべてが同空間に舞う。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

円山応挙の『百蝶図』に寄せられたこの文章は、そのまま田中優子さんのこの本にもあてはまりそうです。100枚の絵図は百科事典のように分類されるのではなく、ただ集められ「同空間に舞う」。



「百」の世界は「尽くし」と呼ばれる。蝶を尽くす。数え尽くし、描き尽くす。ここには「集団」という概念がない。一匹一匹が異なっている。尽くしの方法とは、すべての「種」を集め尽くすことであり、ヒエラルキーはない。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

すべてが集められながらヒエラルキーのない世界。種・類・属などで階層構造的な分類法を生み出したリンネの世界がはじまるのはもうすこし先。分類して分かるのではなく、ただひたすら集め尽くして、違いを描き尽くす。分けらないので違いは互いを排除しない。それは蝶やおかめのように同空間に舞います。



近世のぎっしり絵

この世界では人びとも、猫も、獅子も、野菜もみんな羅列されます。









じつはこのような「ぎっしり絵」が、近世では、世界じゅうに生まれた。現代アートの世界では、同じものの繰り返しが産業社会の表徴になったが、近世アートでは違うものが制御不能、無秩序状態で集積してしていってしまった。そこにあるのは、大都市で活きる個々の人間が秘めている「謎」に関わろうとする、どうにも抑えられない衝動なのである。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

ここに情報の爆発があったのです。近世には、江戸のみならず、世界中で大都市が生まれます。フェルメールのデルフト、アムステルダム、そして、ロンドンやパリ。高山宏さんが『表象の芸術工学』『近代文化史入門 超英文学講義』で紹介しているようなピクチャレスクや観相学、博物学を必要とした情報の爆発が都市には生まれていたのです。そこからリンネの分類学やアルファベット順に並べられた最初の百科事典『サイクロペディア』までは遠くないのです。

書物としての物

そして、このような羅列は絵の中の世界の出来事だけではありません。
あの東照宮でも、龍など聖獣がぎっしりと羅列されました。



東照宮は、江戸時代という時代がかかげた理想の、造形を借りたマニフェストにほかならない。東照宮の建築と彫刻は書物なのである。それも、生き物の原初的エネルギーに満ちた、バロックな書物なのである。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

これは昨日紹介した杉浦康平さんの『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』で紹介されている火焔太鼓をはじめとするアジアの楽器の意匠とおなじ世界です。

これはおなじ時代の李氏朝鮮の飾り縫いにも見られます。



太陽の恵みを布の上に刺し止め、豊饒と子宝を祈願しながら、女性たちは大自然を布に縫い込んで行った。近世に至るまで、布は単なる消費物ではなく、このように自然を力に変えるための、重要な存在だったのである。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

物が書物であれば、逆に書物も物なのです。江戸期の黄表紙や滑稽本が浮世絵・東錦絵とおなじように売られていたのも当然だったのです。浮世絵や錦絵は読み物だったし、黄表紙や滑稽本も見るものだったのでしょう。見ることと読むことのあいだに近代以降のような厳然とした際はなかったのです。

100の違いを描き分ける

この情報のデザイン感覚がもはやいまはもうない。デザインする側にも、デザインを享受する側にも。

少し前に「生活のなかで養われる物を見る眼」というエントリーを書きましたが、絵も書物も布も建物もみんな生活のなかにあって、それは自然や神と通じていた。それが近代以前の世界のあり方だったんだと思います。
自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない」や「自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために」で書いたように、僕がここ最近考えている人間の心理を動かすプログラムとしての文字表現、言語表現の問題がここにある。言葉が悪いというのではなく、言葉が意味にばかり特化してしまって、それ以外の豊饒な感覚をそぎ落として貧相になってしまっているのが問題なのです。

そして、それをシンプルだと勘違いしているのが最悪です。
どう考えても、それは豊饒な感覚を感知するセンスが鈍ってしまっていて、まるで刺激のない子供向けのカレーを大人が好んで食べるかのように「シンプル」を尊び、スパイスの豊かな味わいを含んだ多様性を受け入れられなくなっているだけだろうと思うのです。
そりゃ、そうですよね。ほとんどの情報が生活や人生に密着していない、遠い世界のヴァーチュアルな情報ばかりなのですから。とんだ夢見がちな子供たちに堕してしまったものです。
そこには時の流れを感じる眼もなければ、物語を聞き分ける耳もない。



絵の中に時間と物語をこめる方法は絵巻で完成した。絵が一枚絵や組絵や本になっても、絵師たちは絵を単なるスナップショットにはしない。そこには時間が流れている。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

そんなわけで、テキスト中心、論理的関係性中心の現在の情報デザインってきわめて狭い目で世界を見てしまっているのだなと感じます。
そもそも、いまの僕らに100の違いを描き分ける眼があるでしょうか?
100の違いを並べて楽しむ感性があるのでしょうか?

そんなことを感じさせてくれる楽しい本でした。
それにしても、この田中優子さんといい、バーバラ・スタフォードといい、フランセス・イェーツといい、図像学のおもしろい研究はなぜ女性ばかりから出てくるんでしょうね。不思議。



関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック