宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平

文字、絵、物の形。それらが一体となり、触感、匂い、味覚や音さえも感じられるような表現が必要じゃないのか。マンガや絵本では絵と文字が一体になっている。過去にさかのぼれば江戸時代の黄表紙などでは文字はマンガのような吹き出し表現すら介することなく絵と共存していました。

テキストが物を表象する。そういうシニフィアンとシニフィエのような従属的関係ではなくて、かつての象形文字や、オーラル・コミュニケーションでの言葉のように、言葉そのものが触感、匂い、味覚をまとって表出されるような表現を開発していく必要があるのだろう、と思うのです。



空気が読めない? いや、そもそも空気が書き表せていない

「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない」の前篇後篇、そして、それに続く「自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために」。あるいは、そのすこし前に書いた「近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?」や「「言葉と意味、ボタンと機能」について考えるためのメモ」。
そうしたエントリーを通じて考えてきたのも、ひとがまわりにある様々なモノや自分以外の他人に対して接する際の言葉というものが、機械を操作する際に目的の機能を選択するボタン(あるいはメニュー)のようなものになってしまっているような気が強くするからです。

このボタンをこうなるはずだ。あれ、ボタンを押したのに反応がない。
それとおなじように、こう言ったのに、なんであの人はちゃんとやってくれないのだろうと人間に対しても、ボタンによる機能選択のような操作性を求めてしまう。
言葉が他人を操作するメニューリストの選択項目のように受け取られている感がある。

そして、相手の言葉、インターネットに書かれた言葉を自分が受けとる場合でも変わらないのではないか。言葉を非常に単純な形でしか理解しない。行間を読むことなどは一切ない。言葉の背後にあるものを自分の頭で考えたりすることはなく、書かれた言葉が表象するものを素直に受けとるか、言葉の意味がわからず無視するかのいずれか。
まさに空気が読めない。

でも、実は、空気は読めないのではなく、そもそも発せられる言葉、書かれたテキストそのものが読むことが可能な空気感が書き表せていないのだと思うのです。人間関係のもつ空気が表現されるのがせいぜいで、それ以外の触感や匂い、味覚などをまとった空気を表現できていない。空気を読めないことより、空気の記述・口述ができないことのほうがよっぽど問題だと思うのです。

楽器は単に音を発するためのものではない

この杉浦康平さんの『宇宙を叩―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』も、そんな思いから手に取った一冊です。

楽の器が、天地自然と人間を結ぶさまざまな物語を包みこむ。音と形が共働しあい、民族が共有する古代からの伝承を、その場に集う人びとに気づかせることができるのです。
杉浦康平『宇宙を叩―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』

「音楽とは、人の耳を楽しませるというためだけに鳴り響くのではない」、「楽器とはただ単に音を発するためのものでなく、その形が暗示するもの、形が物語る響きというものがある」と書き記す杉浦さんは、この本でサブタイトルにもある日本の雅楽で用いられる「火焔太鼓」という巨大な太鼓を筆頭に、その火焔太鼓に匹敵する大きな太鼓で、中国や韓国で使われる「建鼓」のほか、さまざまなアジアの楽器を取り上げ、その形の意味を紐解いています。

建鼓:宇宙の声を響かせる宇宙山

例えば、この韓国の建鼓を描いた絵。



頂上には白鷺が羽ばたき、その下に積み重ねられた箱上の飾りからは四方に龍の首が突き出しています。さらに巨大な太鼓の下には蹲った虎がいる。

杉浦さんは、この建鼓そのものが、宇宙山たる崑崙山(あるいは蓬莱山)や生命樹を象徴し、白鷺が羽ばたき、龍が首を伸ばす太鼓の上の部分を「天上界」、山の神であり、秋の象徴でもある虎が蹲った太鼓の下の部分を「地下界」、そして天上界と地下界をつなぐ太鼓の部分が「地上界」を象徴しているものだと読み解きます。

中国においては古来から、鳥(白鷺や鳳凰)や龍は西王母が住む崑崙山頂を象徴し、山の王たる虎は山麓を象徴するとともに、朱雀、青龍、玄武とともに四方位をあらわす白虎として秋(陰陽における陰のはじまり)を象徴しています。
鳥は朱雀であるとも読めそうです。そして建鼓には龍も姿を見せています。朱雀、青龍、白虎と揃ったのに、玄武はいないのかといえば、亀は太鼓そのものです。杉浦さんはアジアに亀を象った太鼓や、亀が太鼓を背負っている楽器が数多く存在していることを紹介しています。

このように清獣を配して崑崙山や生命の樹を象った建鼓が響かせる音は、宇宙の響き、生命の響きそのものとして読まれたのだろうと杉浦さんはいいます。
実際、中国や韓国では、この建鼓が実際に演奏される場合も、そのような宇宙・生命における陰陽の開始を知らせるものとして鳴らされたことを紹介してくれています。

火焔太鼓:1対で陰陽をしめす

日本の火焔太鼓もおもしろい形をしています。
このエントリーの最初に載せた本の表紙を紹介している写真で、真ん中に描かれているのが火焔太鼓です。

楽器としてみるなら太鼓のまわりを飾った火焔の部分は明らかに不要です。しかし、この火焔太鼓の意匠も、中国や韓国の建鼓と同じように単なる音を響かせるだけの楽器として必要な機能以上の意味をもつものです。

火焔太鼓は、建鼓がひとつだけで演奏されるのに対し、常に舞台の左右に陣取った2つが1対になった形で登場するそうです。
そして、左の太鼓には龍が象られ、太鼓の上には太陽をあらわす日輪がかざされるのに対し、右の太鼓には鳳凰が象られ、月輪がかざされる。そのほかにも太鼓の中心に描かれた巴紋が左が三つ巴で右巻き、右が二つ巴で左巻き、太鼓のまわりの輪の数や剣先紋の数も左が奇数で陽をあらわし、右が偶数で陰をあらわすなど、徹底して左右の太鼓が1対で陰陽をあらわす意匠になっているそうです。



さらに細かく見れば、左右の太鼓に象られた龍や鳳凰は、一方が口をあけ、片方が口を閉じ、阿吽をあらわしていたり、2つで1対であるのがおなじように金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅が1対となった両界曼荼羅の構造を示していることなど、太鼓の意匠がさまざまな意味をもっているのです。

まさに「楽器とはただ単に音を発するためのものでなく、その形が暗示するもの、形が物語る響きというものがある」もので、それが響かせる音楽も「人の耳を楽しませるというためだけに鳴り響くのではない」ことがわかります。

神とのコミュニケーション

杉浦さんは、<じつは「聴く」ことが発生する以前に、何者かが鼓膜に「触れる」こと、鼓膜を「押す」ことなどが起こっています>といい、聴覚のなかに触覚をみています。そして、<聴くことの直前で起こる「叩く」とか「打つ」という出来事がある>といいます。

では、誰が鼓膜を叩くのか? 打つのか?
もちろん、神ですw

「小さな音」をたてて神霊を呼び覚ますこと。あるいは「一瞬の音」を叩きだして、神の注意を引きつけること。このような神と音とのかかわりが、日本の神域にはいろいろな形で残されています。「音なひ」です。
杉浦康平『宇宙を叩―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』

このブログではもう何度も書いていますが、神の訪れはもともと「音連れ」でした。古代の日本人はふと耳に小さな音が鳴り響くのを聴いて神の訪れ=音連れを感じたのです。まさに神が鼓膜を叩いてくれていたのですね。

そんな客人(マレビト)たる神を招くために、演奏が行われ、舞が奉納された。芸能ですね。そもそもが収穫を祈る祭りで行われた舞や踊りが、田畑のない都にはいって奉納舞になっているわけです。もともとが舞も楽器の演奏も神とのコミュニケーションのために行われている。

だから、近世になっても「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」で紹介したように、芝居小屋が神を招くための様々な境界で仕切られたり、俳諧連句を行う連の場所に神棚が必須だたりするわけです。そうした芸能による遊びの場は、何より神とのコミュニケーションの場だったのです。歌舞伎のような芝居も、能も、お茶も、俳諧連句も、狂歌も、そんな神とともに遊ぶ場での表現だったのです。

神が音連れる。きっと神は音だけを連れてきたのではないのでしょう。
それこそ、触感、匂い、味覚などの豊かな感覚が神の訪れとともに、さまざまな表現に宿っていたのではないかと思います。

しかし、もうそんな神の乗れるだけの表現が、言葉にも、絵にも、物の形にも失われているのが現状なのではないでしょうか。



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