それは、なぜ自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできないのかの理由ですね(まぁ、暗示的には書いていたつもりですけど)。
その理由をいまあらためて書くとすれば、
判断そのものに使う言葉がすでに情報に侵されているのだから、
その当の言葉を使って思考するしかない自分が、
自分の思うように情報の取捨選択のコントロールをすることなど、
そもそもできるわけがない
となります。
僕はいまの多くの問題が言葉というものがいまだかつてないほど、弱ってしまっていることに端を発していると思っています。言葉が弱れば、人間そのものの思考が弱るのは避けられません。
言語は、人間心理を起動させるソフトウェアである。したがって、言語に大きな作用をもたらすテクノロジーはなんであれ、身体・感情・心など、私たちの行動全般に影響をもたらす。デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』
言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。
見聞を言葉にすることがへたくそになっている
松岡正剛さんも千夜千冊でこのデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を紹介する文章のなかで、「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。
ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。
と書いています。
下手くそになったのは僕らの言葉にする技術が落ちたこともありますが、言葉そのものの弱体化という原因もあるはずです。
その言葉の弱体化は何を原因としてはじまったのか。
田中優子さんが『江戸の想像力』で書いているような「19世紀とは、言葉が、言葉とは無縁な認識の正確な反映、模像、くもりのない鏡となるほどに、科学的言語としてみがき上げられる時代であり、さらに、言語そのものが客体となった時代であった」という近代化の過程で、松岡さんが先の引用に続いて言っているような「かつての聞き語りの社会がいきいきしていた時代には、見聞の想起には、必ず触知も味覚も匂いも伴った」という触知・味覚・匂いなどが言語から排除されたことからはじまります。
近代化以降の言語においては、シニフィエとシニフィアンの1対1の対応が目指されたがゆえに、それまで言葉にまといついていた触知・味覚・匂い・音感などの多様さが根こそぎ排除されてしまったわけです。これに関連するところでは、松岡さんが『外は、良寛。』のなかで「ソシュール言語学でいうようなシニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)の関係で言語を解くというような視点では、ほとんど良寛には歯が立たない。書の前ではそんなものは消えてしまいます」なんて書いていておもしろい。書にはまさに触知・味覚・匂い・音感などの多様さがこびりついてるんでしょうね。だから、逆に、僕ら現代人には書は読めないのかもw
ちょっと話がそれました。
近代の言語は意味をあらわす透明性を重視し、それ自体、明確な表象として客体化されました。そこで排除されたのが、視覚以外の五感の多様さや、意味そのもののあいまいさでした。
さらに追い打ちをかけるように、言葉中心に論理的・科学的に組み立てていこうと計画されていた近代が、その内部からまったく別のイメージ中心のテレビを生み出したあたりから予定が狂います。
結局、その予定外の流れが、そのまま言葉の弱体化につながっていってしまったのだと思うのです。
デジタル化とアルファベット書記法
デリック・ドゥ・ケルコフは「私たちは今、デジタル化をまったく新しい技術であるかのように話題にしているが、その起源はアルファベットの書記法にさかのぼることができる」と言っています。まさにアルファベット書記法が言葉から触知・味覚・匂い・音感などの多様さを消し去るのに有効な技術的基盤を与えたのです。
とうぜん、そこに印刷技術革命が加わって、「科学的言語としてみがき上げられ」、鏡のような正確さでモノを表象するものとして扱われるようになる。その結果としてモノを直接見聞するのではなく、表象である言語を客体として見聞するようになっていくのです。ようするに、このあたりが昨日のテレビやインターネットというメディアの話を関連してくるところです。
もちろん、これはなにもアルファベットという書記法に特有のことではないでしょう。日本だって明治以降はおなじ流れのなかで近代化していくわけです。
ただ、アルファベットという書記法は、日本語や中国語などのアジア圏の言葉などに比べて文脈への依存度がすくなく、個々の記述を独立的に扱ってシニフィエとシニフィアンの1対1の対応を実現するのには向いていたのです。
とはいえ、言葉を使っている限り、どうしてもあいまいさを完全に排除することができません。そこで高山宏さんが『近代文化史入門 超英文学講義』でも紹介しているような、1660年代に英国王立協会とライプニッツがともに目指した普遍言語の試み、そして、その成果としての二進法による表記法が生まれます。もちろん、それはそのまま今日のデジタル技術の基盤になっているわけです。
イメージの再構成はするが意味を了解するわけではない
ただ、それが近代が当初想定していたような読み書きという言語使用にとどまっているあいだはよかったのだと思います。触知・味覚・匂い・音感などの多様さを消し去った代わりに、言葉は視覚との関係を強め、視覚イメージを言葉に従属させていました。しかし、そこに「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない」の後篇で書いたように、そこから情報を取得するのに読み書き能力とはまったく異なる能力を要求するテレビが主役として躍り出たのです。
テキストは、曖昧さを避けるために、細かい規則や約束ごとを要求するものだ。読むための訓練はもちろん、テキストを十分理解するためにはさらに教育を受ける必要がある。一方、テレビを見るのに指導はいらない。テレビの場合私たちは、スクリーン上でも心のなかでも決して完成することのないイメージを、たえず再構成しているのである。(中略)しかし私たちは、実際にはイメージを再構成しているだけで、意味を了解しているわけではない。デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』
イメージの再構成はするが意味を了解するわけではない、というテレビの見方。その見方に十分慣れた頃に、ふたたびテキストが中心のインターネットの時代がやってきたのです。もはやテキストを読むのにも意味を十分に了解せずにイメージを再構成するだけで満足できるような読み方しかできなくなっています。そこに日々大量の情報が生みだされるインターネットの時代が到来した。これでは見聞したものを言葉にすることがへたくそになるのも致し方ないでしょう。
新しい言語
問題はきっと、そんな状態である僕らに、もう一度、触知・味覚・匂い・音感・イメージをともなった状態で、人間心理を起動させてくれるソフトウェアとしての言語を新たに開発しなくてはいけないということなんだと思います。でなければ、せっかくインターネットで世界がつながったとしても、そこでの見聞を僕らは十分に考えることもできなければ、味わうこともできないのです。そうでなければ、言葉はいまのようにネット上、マスメディア上で、個々人の意志とは無関係に、ミスした人間を徹底的に誹謗中傷して叩きのめすような暴走がとまらないのではないかと思います。
とにかく個々人が自分の見聞したこと、感じたことを、ちゃんと自分の体内で走らせることができるプログラム言語としての新しい言葉をつくることを考えなきゃいけないのではないかと思っています。
関連エントリー
- 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇
- 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇
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