自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇

マーシャル・マクルーハンの後継者ともいわれるデリック・ドゥ・ケルコフは、『ポストメディア論―結合知に向けて』のなかで、「テレビの心理効果のなかでもっとも知られていないのは、それが個人の情報処理の文脈とプログラムの両方を外部化させてきたこと」だと述べています。

また、

テレビは、刺激とそれに反応するまでの間合を排除することによって、私たちから意識的に情報処理をする時間を奪ってしまうのである。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

といい、本や新聞などのテキストを読む場合のような情報のスキャニングのコントロール権を人間の側がもっておらず、あくまで画面に外部化されたスキャニング済みの映像を網膜に照射されているのだとしています。情報処理されることなく、直接網膜に、そして、身体に植えつけられるというわけです。そこに心的な判断が働く時間的な猶予は与えられない、と。

いっぽうで、コンピューターについては、こんなことを書いています。

今日の認知心理学者につきまとう課題といえば、コンピュータを使うとき私たちは主人なのか奴隷なのか、あるいはその両方かという問いかけだ。すなわち、プログラミングの手順は、純粋の機械にだけ適用される外側の出来事なのか、あるいは厳密な操作が課されることによって、私たちはほかならぬプログラムの拡張装置になっているのではないかという問題である。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

これは先日「近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?」というエントリーのなかで書いた「言葉が客体化され、操作対象である表象となって以降、現在の情報技術のように言葉と機械的な機能を結びつけ、それを同時期にリンネによって完成された分類学的方法を用いて構造化することばかりに注力したデザインの手法が目指されることになり」、「この機械の側を中心に組み立てられた操作をインタラクションと呼び、人間がうまく機械に従えるようにする作業をインタラクション・デザインと呼んだり」し、さらにそれを「どうしてこのような人間が機械に難なく従えるようにすることを「人間中心設計」と呼ぶのか」という疑問につながります。
実際、これが文字・言葉の問題に重なるのは、ケルコフは「アルファベット・プログラム」と題して、西洋的な言語の問題、そして、さらにその言語に影響を与えている貨幣の問題を扱っているのを考えても間違っていないようです。言葉の問題は、それが内部的に働くものか、外部化されたものを通じて働くものかは別にしてプログラムの問題にほかならないからです。

このテレビとコンピューターを二大勢力とした情報化社会において、よく言われるような「日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていく」なんてことは本当に可能なのだろうか?と思うのです。

今回はこの問題を2回に分けて考えてみようと思います。

一片の悪も許さない、この風潮は何なのか

最近のこの異様な風潮はいったいなんなんでしょう。
誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコにする。

食品の問題、スポーツの問題。
オリンピックで野球がメダルをとれなければ、それまで持ち上げていた星野監督に批判の嵐が吹き、最近では北の湖さんもそんな風に理事長からおろされてしまいました。ここでは間違いを犯した人に責任をとってもらうということ自体の是非は問いません。ただ、よってたかって、というやり方がいけないだろうと感じます。それは大人のイジメ以外のなにものでもないという気もします。

まったく厭な世の中になったものです。
この一片の悪も許さないといった風潮は何なのでしょう。

善悪の境を設けて区別するという傾向は別にいまにはじまったことではありません。ただ、昔は悪は悪で生きる術があった気がしますが、いまは悪はまったくもって生きることを許されないような風潮になってしまっています。免疫の防衛機能が必要以上に働いてしまっていて、自分たちが生きる社会そのものを不健康な状態に変えていこうとしているように感じます。

この社会全体の異様な潔癖さには気持ちの悪さを感じずにはいられません。
そして、ここにもはや情報を個々人が判断できなくなるような何かが働いてしまっているような気がするのです。

此岸と彼岸を分ける境目

先にもいったとおり、善と悪とを分けること自体が悪いのではありません。許せること/許されないことの区別をするのもいい。二つの物の相違を見て「分ける」ことで、二つのものがあるのだと「分かる」ことは人間という生物にとってごく自然な認識の仕方なのですから。

境を見出し、そこに此岸と彼岸の区別を知るのは、人間が情報を扱いはじめてからずっと続けてきたことです。

河原はさかいめである。河と陸の境界、というだけでなく、河そのものが人類の観念史上まれなくらい、ひとつの世界ともうひとつの世界とを隔てる「さかいめ」の象徴物として、しっかり立っている。このような象徴物のことを「母型(マザータイプ)」という。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』



人が環境のなかの境目を見てとり、それを情報として扱っているということはアフォーダンス理論でもいわれることです。佐々木正人さんは、後藤武さん、深澤直人さんとの共著である『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』のなかで「不均質さが情報になる。サブスタンスとミーディアムの界面であるサーフェイスが等質だとすると、それはキメがない。光源からきた光がキメにぶつかって。反射に差ができるということが視覚の根拠なのです」と言っています。

その「不均質さ」という情報が、河をはさんだ、こちら側と向こう側にはある。河は此岸と彼岸を分ける。まさに現世と来世の境目である三途の川の賽の河原です。

宮本武蔵、瀬戸際を渡る

善人も悪人もこの三途の川を渡って彼岸に行きます(ただし善人と悪人では渡り方が違う)。

宮本武蔵の『五輪書』に拍子の話が何度も出てきます。そこに「さかゆる拍子・おとるふ拍子・あたる拍子・そむく拍子」とあります。
武蔵はこのような拍子に自分が相手との闘いをするうちに気づいたようです。どのように気づいたかというと、自分が真剣で構え、相手とともに動いていて「渡」をこすたびに少しずつ気がついていた。相手との拍子を読まなければならなくなり、そのたび自分が「渡」を越したか越さないかということを実感するうちに会得したのです。
武蔵のいう「渡」とは瀬戸や瀬戸際のようなもので、川や海を漕ぐときに越える瀬戸のことをさしています。そこを過ぎるかどうかが「渡」です。剣に生死を懸けようとすると、その「渡」をまちがうわけにはいかない。

瀬戸とは、相対する陸地が接近して、河(または海)が狭くなっているところを指します。武蔵にとって、こちら側からあちら側へ渡ることが可能なその瀬戸(際)は、認識をまちがえば、すぐさま生が死に転じてしまう此岸と彼岸を分ける瀬戸際でもあったわけです。

武蔵は、そんな瀬戸際という不均質さの情報を読み、拍子を読んだ。自分で情報処理しなければ、自分が生死の境を向こう側に渡らなければならなくなるからです。
ここで見逃してはならないのは、武蔵がその不均質さとしての情報である拍子を読んだのは、「自分が真剣で構え、相手とともに動いて」いるなかでのことだったという点でしょう。それはテレビのように画面のなかが動きのコントロール権を一方的に握られていたり、コンピュータの操作のように正常に機能するためには人間の側もあらかじめプログラムされたとおりの操作を反復するしかない場合のように、情報を処理する人間の側が動きのコントロール権を失ってしまった状態での処理とは違うのではないかと思います。

河原者としての芸能民

河原の話に戻すと、中世においては、そこは人が住む場所でもありました。
そこに住んでいたのは、役者や皮革業者、庭づくりに携わる人びと。彼らは河原者と呼ばれ、制度の隙間に生きていました。

河原は管理が及ばない世界だ。離農逃散して来ても、異国者であっても、河原に来れば生きることができた。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

河原に住んだ人びとは遊民でした。「どこから来たかわからないし、いつどこへ消えてゆくかわからない把握できない」人びとでした。

各地を旅してまわる芸人たちもそこに含まれました。歌舞伎のもととなった阿国のかぶき踊りも京都の四条河原で盛んに行われました。

芸能は境い目を好む。では、芸能が境い目に発生したのはなぜなのか。境い目は弱いものたちが集うところであったからである。

河原だけでなく、都からすこし離れた辻や道で行われる辻芸や大道芸が芸能のはじまりだったと松岡さんは書いています。そして、辻や道ではじまった芸能は、その後、家々の門にとどまる門付芸になり、庭に入って芝居になります(芝に坐ったから芝居というそうです)。さらに奥の座敷に入れば座敷芸になる。辻・道から門、庭、奥へと芸能はどんどん境目を分け入っていきます。

遊郭と芝居小屋

とはいえ、彼らは定住地をもたない遊民でした。それが定住するようになるのは、江戸期のことです。
幕府は、移動する民である芸能民を管理しようとして、歌舞伎の芝居小屋や遊郭を集めた「悪所」をつくった。江戸文化はそんな悪所を中心に生まれます。とうぜんですね、それまで文化を担っていた人を集めたわけですから。このあたりはタイモン・スクリーチが『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』でも紹介しています。

歌舞伎だけでなく、相撲も落語もそんな悪所を中心にした文化の「連」というネットワークのなかから生まれてきたのです。そんな生い立ちのあるものに必要以上の潔癖さを求めること自体がおかしいのではないかと感じます。

とにかく、それまであちこち動き回って管理ができなかった遊民たちを集めて、境で分けられた「悪所」をつくってそのなかに集めたわけです。もちろん、その境は誰でも渡ることができた。男たちは遊郭へ、女たちは芝居小屋に行ったわけです。江戸では芝居小屋のある区域は「川むこう」と呼ばれたし、旦那衆は吉原の遊郭へ舟で通いました。

そして、芝居小屋自体がまた境目の巣窟です。能舞台の橋掛り、歌舞伎の花道はその代表的なものです。

江戸の芝居小屋は、小屋の上には櫓をかまえて梵天や毛槍を立たせた。小屋の前面には看板と提灯とうず高い積物が神前供物のごとくにびっしりと並び立つ。胎内くぐりをおもわせる鼠木戸をくぐって観客席に入ると、そこには桟敷以外にも神楽堂や羅漢台やら通天橋やらの神々しい名前の席が用意されている。(中略)芝居小屋というもの、まさに神仏宇宙尽くしで、境い目だらけなのである。

田中優子さんが『江戸はネットワーク』で、近世までの日本文化において「場」とはそもそも神の座であったといい、俳諧連句などの遊びの「場」ももともとは神と遊ぶ場であったことを示唆しています。それは以前に紹介した『庭と日本人』で上田篤さんが庭とはもともと神と遊ぶための場であったと指摘していたことにも通じます。

そんな神と遊ぶ「場」を引き継いだ芝居小屋や遊郭が境目に満ち溢れているのは当然でしょう。その境目を越えて神はこちらに来るのですし、人びとはその境目を越えて普段のケの場からハレの場に足を踏み入れるのですから。

さて、長くなりましたので、この続きは後篇に

   
  

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