生活のなかで養われる物を見る眼

物を実際に使うことで、物を見る眼が研ぎ澄まされていく。

当たり前といえば当たり前のことですが、どうやらこれは機能面や使い勝手の面での批評眼だけにいえる話ではなくて、見た目での意匠・スタイリングの面での評価でもいえそうなことだなという気がしています。何かにこだわりをもって使用するなかで、よいと感じる意匠の幅が広がったり、評価する眼を変化させたり、そういう変化が生じる「使う」という行為と「見る」ということの関係というものを、あらためてきちんと捉えてみたいと考えるようになりました。


『道具と暮らす』より


自分の生活・身体に密着した眼で物を見る

そもそも人が「物を見る」という場合にも、どの程度の深さで見るのかという意味で、見方のレベルには違いがあると思います。「お金を払って購入するために見る」「お金を払って購入し、さらに愛用するために見る」「実際の生活で利用するなかで見る」というのは、単に「そこにあるから見る」というのとは見方が異なるはずです。

まず自分との距離に違いがある。

自分で買いもしないものをあれこれ評価するのと、自分で購入してそれを身につけて使うのでは評価する眼は違っても不思議はありません。見る際の評価軸が違うでしょうし、自分自身や自分自身がもっている他のものとの関係で物を見て評価するという視点も出てくるでしょう。また、ある1シーズンのみ使って捨てるようなものと、長期間使うことを想定したものを選ぶ眼でも違いはあるはずです。それは単純に物を自分自身や自分の生活と切り離して評価する際の見方とは違って当然だと思うのです。

人の「物を見る眼」はコンテキストに対して相対的

しかし、マーケティングなどで「デザイン評価」などという場合、そうした「物を見る眼」の違いが考慮されない場合が多いように感じます。そもそも人が「物を見る眼」というのが変化せずに固定的であるものと想定していたりします。絶対的な評価をもっているとまでは想定しないまでも、コンテキストに応じた「物を見る眼」の相対性があまりに無視されている。それではあまりにもざっくりとしたことしかわからないだろうなと思いますし、詳細に知ろうとすればするほど、データの信頼性は失われるはずだと考えます。

このような考えてみれば当たり前に思うことを、感性工学などでのデザイン評価の方法では無視されるケースが多いように思うのです。
もちろん、そうしたデザイン評価の方法がすべてダメだというのではありません。使用や経験の蓄積の影響がすくない範囲で「物を見る眼」=デザイン評価を調査・分析するという方法はとうぜんありえます。しかし、そのためにはまず「物を見る眼」がそもそもコンテキストに対して相対的であることを認めたうえで、どういう場合にその相対性の影響が少なく静的な状態の測定が可能かを考える視点が必要であるはずです。

食器を選ぶ眼も変わる

そうした意味でも人が物を使用することで、物を評価する目が変わっていくということはどういうことなのかをもうすこしきちんと捉えておく必要があると思うのです。

ごく私的な例を示せば、この春くらいから食器に興味をもち、気に入った物があればすこしずつ買い足しているのですが、最近ははじめはまったく興味をひかれなかった(古)伊万里の染付・絵付ものの魅力を感じられるようになってきたということがあります。
江戸後期や明治期につくられた古伊万里の絵皿には、いまなら思いつかないような意匠のものが見つかって楽しい。それまでどちらかという表面のつるつるとした磁器よりも、土の荒々しさの残る陶器に惹かれていたのですが、伊万里焼への興味もあって磁器にも興味の幅も広がってきました。


白洲信哉『天才 青山二郎の眼力』より


陶磁器を手元に置いて日がな眺めていたり、風呂に入って好きなやきものを石鹸でごしごし洗ったり、タイルの壁に墨で何やら数字を書いて考えこんでいたり。畸人とも変人とも言われた青山を、新有の河上徹太郎は、「彼のように美しい倦怠家を私は知らない。(中略)倦怠は怠惰とは違う。時にはその正反対である。青山ほど勤勉に退屈している者はない」と敬愛した。

何故、そういう風に変化してきたかと考えると、やっぱりそれは実際に料理を盛り、盛られた料理を口にするなかで育まれた見方だという気がするのです。実際の生活のなかで使うことで前には見えていなかったものが見えてくるようになることがあるのだと思います。そりゃ、そうです。だって、使うシーンではそれこそ様々な角度で物を見るケースが与えられるのですから、それこそいろんなディテールが見えていいはずです。とうぜん、こだわりをもって見ることがなければ、見たところで蓄積はされませんけど。

もちろん、いろんな食器が売られているのを、値段と相談したり使うか使わないか悩んだりしながら、たくさん見てきたことで、物選びの眼が変化してきたということも重なってのことでしょう。でもやはり、使うことも考えて選ぶのと、ただ純粋に見た目の良さだけで選ぶのとでは、おなじように意匠・スタイリングを評価するのでも物を見る深さが違います。これはファッションに興味をもちはじめて、いろいろと試してみた頃の感覚に近いんですね。

物を見る眼とデザインする眼

この「物を見る眼」というのはデザインする際でも大事でしょう。自分で見極められないような相違をデザインと作り分けることはできないはずですから。

  • 物の形が実際の生活に入り込むくらいのレベルでデザインされているか。
  • 使う人・持つ人に身近に感じられるように意匠設計がなされているか。
  • 深く物を見る眼ができた人にも物足りなさを感じないレベルで物の佇まいが考えられているか。
  • 生活や人生のなかで使われる物として、そういう中で日々見られる物として耐えうる物をデザインが考えられているか。
  • 形だけでなく素材のもつ様々な感触も含めてデザインすることができているか。その素材の加工は日々の変化も肯定的に許容できるものか。

人が生きるなかで、その人に寄り添うように存在できる物をデザインしきるには、使う側が物を選ぶ際の「物を見る眼」と同等かそれ以上の見る眼がデザインする側に求められるはずです。とうぜん、デザインする側にも同等の生活へのこだわりが必要になるのではないでしょうか。デザインする側が、自分の生活のなかでこだわりをもって様々な物に接して、見る眼を養えているか、です。

気に入ったものを購入したら、それを手入れすることも楽しいものです。道具は、それを用いたらもとの位置に戻したり手入れしたりすることもふくめて、すべてが使う行為なのです。


柏木博『玩物草子』より


以前に「自分の暮らしに興味がないんだから、人の暮らしの提案なんか、そりゃできないよなという話」というエントリーも書きましたが、果たして、デザインに関わる人がそういう眼をもって自身の生活にこだわれているか、というところはもっと問題にしていいでしょう。

こういうのが実は、次世代ユーザー中心デザインなんじゃないかと思ったりもしています。

  

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