江戸の想像力 18世紀のメディアと表象/田中優子

この本は「すごい」と思わせられる本にはたまに出会います。
最近だと高山宏さんの『表象の芸術工学』がそうでしたし、松岡正剛さんの『山水思想』『空海の夢』がそうでした。
そして、この本、田中優子さんの『江戸の想像力』もそんな一冊でした。田中優子さんの本はすでに『江戸はネットワーク』を紹介していますが、あちらは様々なメディアに書かれたものを集めた雑多な小篇集という印象なのに対し、こちらは書き下ろしで18世紀という時代のメディアとそれを生み出した人々や時代の流れを見事にまとめてくれているので読みごたえもあるし、近代直前の18世紀の世界の動きを理解するのにも向いています。



18世紀・文化爛熟の時代

この本が扱うのは、平賀源内や上田秋成が活躍し、『解体新書』が書かれ/描かれ、東錦絵と呼ばれる多色摺りのカラー版画が生まれ、鈴木春信の贋作浮世絵師だった鈴木春重が西洋のエッチング技法を学び最初の銅版画師・司馬江漢となった、18世紀後半から19世紀初頭の江戸の時代の文化の変容です。

すこし前に紹介したタイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』が扱ったのが、松平定信が老中筆頭だった時代であったのに対し、この本はそのひとつ前の時代、田沼意次が老中筆頭だった時代であり、質素倹約を旨とした寛政の改革以前の田沼治世下による重商主義の時代の文化を扱っています。

ただし、その範囲が田沼治世下の江戸という狭い範囲に留まっているかと実はそうではありません。田沼治世下の江戸の文化に目を凝らすと見えてくるのは、「ミシェル・フーコーは言語の側面から、大きな変化の境界をやはり19世紀はじめとする」という世界的規模の大変化が起こる直前の18世紀後半の多種多様な認識・技術・形式が混在となり、異質なもの同士が未整理のままぶつかりあっていた時代のエネルギーなのです。

近世的なものとは、人工するエネルギー、極端な文化的爛熟であるとともに、自然状態への激しい憧憬であった。新たな創造への衝撃であるとともに、過去への熱い視線であった。「外部」=異質なもの」との出会いであると同時に、すべてのものが「相対的」であることの発見であった。しかしそれはどうやら日本だけの現象ではなかったようだ。
田中優子『江戸の想像力』

深く日本のその時代を知ろうとすればするほど、どうしようもなく世界とつながってしまうような状況がまさにその当時の世界にはあったということです。

近代的な整理に前の時代

日本でいえば、まさにこの田沼治世での文化の未整理なまま爛熟のあとに、タイモン・スクリーチが『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』で描いたように、どうにかそれを視覚的に整理しようとする改革の時代がくる。内・過去から続くものと、外・新しく押し寄せてくるものとの境、それまで中国との関係で形成されてきた天下というものをより開かれた世界において新たに日本として境目を新たに組み立てなおすということが行われたのが、寛政の改革の時代に行われた視覚的改革です。
その整理の対象となった視覚データを大量に生み出していたのが、この本の対象である田沼治世の文化爛熟の時代であり、同時期の世界であったといえます。寛政の視覚改革で整理された基本的な構造が、その後、「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」でも書いたような日本画を生む構造にも使用されることになる。

おなじようなことが18世紀には世界でも起こっていることは、すでにこのブログでも、高山宏さんの『表象の芸術工学』『近代文化史入門 超英文学講義』の紹介を通じてみてきました。角が3本ある鹿だとか、足が五本ある牛だとかが、めずらしい形をした貝だとかの様々な珍品奇品が貴重な絵画ともにテーブルにいっしょくたに並べられていたのを「分けて」みよう、「分かって」みようということになる。リンネの分類学もちょうどその頃に確立します。オランダでは地図の流行があって、それが中国を媒介として日本にもすこし遅れて飛び火する。

そんな世界と日本のバラバラにみえる動きが実は、世界的規模の大変革=近代化やそれ以前のさまざまな認識・技術・形式の爛熟の時代が地続きでつながっていたのだということを垣間見せてくれるのがこの本の魅力です。

金唐革・ボッティチェルリ・ストラディヴァリウス

例えば、この本のはじめは、山東京伝が書いた洒落本『通言総籬』で、艶二郎という主人公が「黒茶の小紋が入った黄八丈の着物に、お納戸茶(くすんだ藍緑色)の帯をしめ、黒八丈のずらりと長い羽織をひっかけ」「頭巾を襟巻にして、吉原の通人用の草履をはき、黒革の足袋をつけ」「当時はやりの本多まげを結いあげる」といった「頭のてっぺんから足の先まで」当時流行のファッションで登場し、たいこ持ちの医者・わる井しあんとともに、悪友・北里喜之介の家を訪れたが、酒の肴がないので、しあんは旦那の艶二郎に鰻をとろうとおねだりするところからはじまるのですが、そこで艶二郎が「きんからかわのまへさげから、なんりやうを一片ほうりいだす」、その金唐革というのがすでに江戸の空間から地理的にも時間的にも大きな世界へと通じる入り口となっているのです。

まず、金唐革というのは何かというと、「旧岩崎邸庭園「金唐革紙」&根津神社「つつじ祭」」というエントリーでも紹介しましたが、「もともとヨーロッパで壁の内装に用いられた金唐革の技法を和紙で再現したもの」です。イタリア・フィレンツェにおけるルネサンスに出来上がって、1790年ころのフランス・ロココの終わりとともに幕を閉じたデザインだそうです。
この金唐革を模して、素材を和紙に置き換えた金唐革紙が、のちに流行のファッションに身を包んだ艶二郎がもった流行のファッション小物・金唐革の煙草入れとして流行します。金唐革紙は、金属箔をはった手漉きの和紙に文様を彫った版木棒を重ねて凹凸をつけ、彩色した皮を模した豪華な壁紙で、最近では、現在唯一、金唐紙の製造技術をもっている上田尚さんの金唐紙が有楽町にできたペニンシュラ・ホテルの1泊98万円の部屋の壁を飾っていたりします。

もともとは革でつくられていた金唐革を、和紙製の金唐革紙に変えた人物こそ、この本の主人公のひとりでもある平賀源内です。源内は各地での金山、銅山の開発に失敗して金を失い、さてどうしたものかと考えてこの金唐革紙の製造をはじめたといいます。革製でオランダから日本へ輸入されていた金唐革を、和紙製にして金唐革紙とすることで日本からオランダをはじめとする西洋への輸出品に変えようと考えたのです。それには日本の金銀が西洋に流出するのを食い止めなくてはいけない事情も絡んでいました。

おもしろいのは、

源内の諸行動の中のひとつ「金唐革の偽物づくり」を追ってゆくと、ついにそれはボッティチェルリとストラディヴァリウスに行きつくのだ。
田中優子『江戸の想像力』

というところ。

ボッティチェルリとの関連では、中国に栄えた影画がペルシャに伝わり、エジプトに伝わり、それがルネサンス期のフィレンツェの絵描きにも伝わっていく。1444年(または45年)に、しがない革なめし屋に生まれたボッティチェルリは、ちょうど革屋の世界での一大変革であったタンニンなめしができた時代に生きました。このタンニンなめしという新技術は革の表面に文様を型押しするのに適した技術でもあり、ボッティチェルリはこの革に影画人形のように彩色した革細工をつくったら立派になるだろうと夢想し、金唐革をつくったのです。
もう一方のストラディヴァリウスとの関連とは何かというと、金唐革の製造で金箔を革に接着する塗料がストラディヴァリウスに塗られた塗料とおなじだという点です。ストラディヴァリウスの塗料はその製造方法がわからないために、おなじ音色を出すヴァイオリンをつくることはできないと言われていますが、その塗料とおなじものが15世紀から16世紀の金唐革の製造における接着剤として使われていて、17世紀になると金唐革の製造でもその塗料は使われなくなり、金唐革そのものの耐久性も劣るようになったといいます。そして、15世紀から16世紀の金唐革の材料・塗料が、影画であるジャワのワーヤンの人形に塗られたものとおなじなのだそうです。

これらの製造の動機こそ、革がタンニンでなめされるようになったことと、アジアとヨーロッパに広がる高分子塗料の存在と、合金の箔の出会いであり、そこにアジアの影画芝居とルネッサンスのギリシャ趣味とが、デザインとしてひとつになり、現出したのだった。
田中優子『江戸の想像力』



人類が始まって以来、情報の流れが途絶えたことはない

こうした本物の金唐革が世界の技術と美術の出会いによって生まれてきたことが、平賀源内が偽物の金唐革を和紙をベースにつくる際にもみられます。

まず金唐革を和紙でつくるには丈夫な紙が必要だった。多色印刷の技術が必要だった。最初にも書いたとおり、その当時には多色摺りの東錦絵が生まれています。何度も色を摺る多色摺りにはそれに耐える上部な紙と、色を重ねた際にずれがでないような技術が必要でした。

さらには、そうした複数の技術を束ねる組織づくりも必要です。それがすでに「「連」という創造のシステムを夢想する」でも紹介したように、俳諧連句のネットワークをベースにした「連」という当時のネットワーク型創作組織形態が担ったのです。

その意味では、平賀源内が偽物の金唐革をつくったといっても、実際に源内ひとりでそれを行ったわけではないのです。

創造はひとりの天才によって突然、何もないところから起こったのではなく、既存のものの渦と、それらをひとつの想念のもとに新しい形にしようとする、ある集団のエネルギーによって起こったのだった。
田中優子『江戸の想像力』

そのような集団的エネルギーの結果、生まれた金唐革はその後、大衆化し、人びとの日常的道具として生活に流れ込んだ。また、輸出品として大量生産され、源内がつくってから50年を経た1830年代には大手紙企業が生産をはじめ、明治期には大蔵省印刷局まで手を出した輸出品にもなるのです。

あたかも血液の流れがとどこおれば生命が途絶えるように、人類が始まって以来、情報(モノを含む)の流れが途絶えたことはなかった。私たちはその絶え間なく動き続ける情報や技術や物を使って、見事に変容と創造を行った人間に、強い共感を覚える。
田中優子『江戸の想像力』

「金唐革の偽物づくり」は「源内の諸行動の中のひとつ」でした。彼はそれまで書物のなかで閉じていた本草学(博物学)に実際のモノをあつめた薬品会(博覧会)を連動させて行動的本草学に変容させたりもしています。
人類始まって以来、「絶え間なく動き続ける情報や技術や物」のスピードとルートの拡大がみられた大航海時代、近代直前の時代にあって、「見事に変容と創造を行った人間」としての源内など、この時代の文化人には見習うべきことが多いように感じます。

「江戸」と聞いて自分に関係ないと思う人にこそ読んでほしい一冊

1つのエントリーではその魅力をとても伝えきれませんが、この本にはそうした変容と創造の時代にいきた人びとの行動、そして、それを促した時代環境が見事に描かれていたとても興味をひかれました。また、折があれば別の視点からこの本の内容を紹介する機会もあるかもしれません。でも、それを待っていただくよりは、ぜひ実際にこの本を手にとって読んでほしいなと思います。
近代というのがいかに様々なシステムの1つにすぎず、当然、それ以外の認識・技術・形式に支えられたオルタナティブなシステムが可能であり、また実際に存在したかを感じることができると思いますので。

最近、このブログではタイモン・スクリーチの本の紹介なども含めて、18世紀江戸について着目したエントリーを書いていますが、「江戸」というだけで自分には関係ないと感じる人が多そうなことに気づいて、嘆かわしい気持ちになります。おなじ18世紀に視覚文化に着目したバーバラ・M・スタフォード高山宏さんの本を紹介した際の反応とでさえ差があるのが、なんか固定観念だけで「江戸」というものを捉えてしまっていて、自分の外に出ることができないんだなと感じて、嘆かわしさを感じるのです。そんな「江戸」が実は世界とも現在のこの社会システムとも大きく関わっていることに対して無関心、無知でいる自分に気づかずにいる人にこそ、この本は読んでもらいたいな、と思います。



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