「言葉と意味、ボタンと機能」について考えるためのメモ

言葉とその意味の一対一対応。
ボタンと機能の一対一対応。
正しい言葉、正しい操作を選択しなければ、意味・機能を引き出せないというコミュニケーション。それは人間の能力を活かしている?殺している?

どうも外化(システム化)の仕方が誤っているのではないかという気がします。

近代は、M・フーコーもいうように、客観化され論理化された事実を、くもりのない鏡のように写し出すことが、言語に要求された。不適切さや不純さや伝達効率の悪さや論理の欠如は、駆逐された。しかしそのかわり、意味の複数の可能性の捨象と、論理的関係への還元が起こった。
田中優子『江戸の想像力』

インタラクション・システムにおける使いやすさとは?
人間中心設計と認知科学のつながり?
言葉と物のつながり?
言葉とは? 情報とは?
情報デザインとはいうものの、そこでいうところの「情報」とは何を視野に入れているのか?

ほかにも参照するものはいろいろとある。

今この話をしながらぼくは扇子を使っている。扇子は「せんす」という呼び方でなければならない根拠は何もない。中にはこれを「うちわ」と呼ぶ人がいても構わないし、アメリカ人は「ファン」と呼び、フランス人は「エヴァンターユ」という。この4つの表象に共通なところは何もないし、別に涼しい風を思わせる音感があるわけでもない。
結局のところ、名前というのはその程度の区別がつけばいいという割り切りが、「表象」という名の、つまりは「契約」である。そういう割り切り方が、1660年代に成立した。それが近代の出発点である。「言葉」と「物」を「契約」で無理やりつなぐ。うまく機能すれば、どんな表象も受け入れて使っていこうということで、汎ヨーロッパ的に動き出した。

今日の私たちは、文字の働きを一面的にとらえすぎているのではないでしょうか。古代における文字とは、今日の文字のようにただ単に意味を伝え、黙読されるだけのものではない。呼吸とともに声にのり響きを生み出し、書道のように力強く書き記され、ときにこの拍板のように激しく叩きつけられてその力をとび散らす。身体の動きと一体化し、物質の本性に支えられて、はじめて力をうるという記号でした。
杉浦康平『宇宙を叩く』

私はいつの日か、ある種の"言語"をつくりたいと思っている。(中略)なんとか日本語によるシステムにしたい。そうなると、ライプニッツからフレーゲにおよぶ普遍的記法、ならびにBASICにはじまったプログラム言語のしくみに学びつつ、その一方では甲骨文字から意味が派生してくる経緯や、万葉仮名のありかた、はては日本語の概念の基本構造などに夢中にならざるをえなくなる。

迂回と亀裂を孕んだヴァールブルクのテクストは、その回避と沈黙によってこそ、何かを語っている。(中略)この回避の身振りには、ヴァールブルクのテキストに伏在する「不安」が表れていると言ってよかろう。それはおそらく、いったん入りこんでしまえば、「言葉と像との自然な相互関係」も「歴史的唯名論」も成り立ちえなくなるような迷路を前にした不安であったにちがいない。その迷路とは、言葉と像を「自然に」結びつける保証となるような、個人の自己同一性が解体される過程にほかならない。

モノとは「霊」であって「物」であり、コトとは「言」であって「事」である。上代日本語のモノとコトは観念と言葉と事物および現象を分別しなかった。分別しないことによってトータルな世界観を維持できた。

いいですか。文字デザインなんて簡単にいわないでください。いきなり技術のいろはということで文字デザインのことを考える前に、文字デザインの社会史があるということなんです。何万人もの人間がそのために血を流しました。新しい文字を作らないと投獄されて殺されてしまうなんていうことすらあった。

文化を超えたモノの流通、人の交通。人口の増加。貨幣を媒介した交換。他言語間の翻訳。印刷技術と活字。多文化の物の大規模でスピーディーな流入。分類学。

今日のところはとりあえず列挙するだけに留めておきます。考察はまた後日。

   

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