江戸はネットワーク/田中優子

名と自由」や「「連」という創造のシステムを夢想する」でもすでに紹介している田中優子さんの『江戸はネットワーク』。

  • 第1章 人びとで賑わう
  • 第2章 遊女は慈悲に生きる
  • 第3章 連に集う者

の3つの章で構成される本書は、第1章では昨日の「「連」という創造のシステムを夢想する」でも取り上げた江戸期(特に平賀源内や大田南畝が活躍した天明期)の連の場や江戸の市場を取り上げ、3章ではその連で中心的な役割を果たした山東京伝や蔦谷重三郎、平賀源内を大田南畝などを個別に取り上げる。あいだにはさまった2章では、遊郭、遊女と江戸期の男女関係や家の問題を扱っています。

今日は、この2章にすこし触れながら「社会における生産の単位」について考えることで本書の紹介とさせてもらおうと思っています。

家族という生産の単位

昨日の「「連」という創造のシステムを夢想する」では連という生産の単位を紹介しましたが、あれはどちらかというと人びとにとっては裏の顔、副業的な生産単位であったともいえます。連に参加していた人には武士や大工、商人など、それぞれ士農工商の封建的な表の身分を持っていました。「名と自由」で触れたように、その身分を隠すために連では俳名や狂名などで俳諧や狂歌の連に参加していたのです。そちらのほうが稼ぎは良かったにしても、それはあくまで副業的でした。

そんな連が裏の生産の単位であるとすれば、表の生産の単位は家、家族でした。

家庭(家族)というものは、通常は消費単位であるとともに生産単位だった。
田中優子『江戸はネットワーク』

家族は、農民から武士、商人、職人、芸能民にいたるまで労働の単位だったといいます。いまのように個人が労働・生産の単位なのではなく、あくまで単位は家でした。
いまでは家庭といえば、消費の場としてしか捉えられないし、その消費の単位でさえ、個人あるいはもっと細分化され、シーンや経験みたいなものの単位にまで細かくされてしまっているのが現在です。それが家庭を消費の単位としてだけでなく、生産の単位として捉えていたというのはおもしろいと感じるわけです。

社会システムにおける家族の無意味化

とはいえ、これをおもしろいと感じること自体、現代がいかに歴史のなかでほかと分断された孤立した時代なのかを示しているようなものです。

女は男と共に働いた。そしてそれは近世の特徴というより、近現代をのぞいたほとんどの時代の普通の家庭のあり方だったろう。近現代の家庭は歴史上かつてないほど社会の他の諸機能から分離され、「プライヴァシー」という名の城壁の中に孤立している。これは歴史上でも極めて特殊な家庭のあり方なのだ。
田中優子『江戸はネットワーク』

女だけでなく、家庭のなかでは子供も老人も働いていたはずです。それが家庭というものに意味をもたせたし、さらに複数の家庭が寄合や村を成すことで生産のシステムは動いていたのでしょう。

それを近代の個人主義や資本のもとへの労働の集約、そして、テイラー・システムによって労働の場と家庭の場の分離が促進されると、家庭はもはや社会の生産の面からみれば無意味な存在になる。生産・仕事を介してつながっていた家族の絆は失われる。それでもテレビなどの商品が一家に一台であった時代であれば消費においてなんとかつながりを維持できていたのでしょうけど、消費さえ個人単位に切り替えられれば、もはた家族をつなぐ社会的な意味はほとんどなくなります。

生物進化における家族

そもそも人間という生物は、進化上の戦略として、妊娠期間を長くし、その長い期間にも限らず出産時の子供は生物的に未熟で親やまわりの手助けを必要とし、それゆえに狩りや食物の生産などを集団で行う必要もあり、それができなくなった年長者が未熟な子供をみる形に進化しました(「人体 失敗の進化史/遠藤秀紀」、「セックスはなぜ楽しいか/ジャレド・ダイアモンド」参照)。家族を単位とした社会システムというのは人間という生物進化の一部だとみてもよいはずです。であれば、家庭を社会的に無意味化し、個人やそれ以上に細分化したものを社会における単位にみなす近現代のシステム設計は、まさに人間という生物の身体の特徴にみあわないシステムになっているような気がするのです。

前近代ではまず生産労働があって、そのシステムの中に家事労働が組み込まれている。農業労働やマニュファクチュア労働の中には育児をしながらできる仕事が多く、食事を作ること、運ぶこと、つくろいもの(修理)は農業労働の中の一環である。当然、家事には使用人や夫や兄弟、子供、老人など他の家族も関わらざるを得なくなる。
田中優子『江戸はネットワーク』

単純に血のつながりというだけではなく、家事に使用人も含まれていることで、むしろ生産の単位が先にあって家族や家事労働が形成されるのがわかります。血のつながった者の単位を家庭と呼ぶよりも生産の単位を家庭・家として、そのなかに家事が含まれていたわけで、家庭は生産を介した社会とのつながりをもっていたわけです。

前近代の家庭は家事労働の手間が極めて大きい割に、それは閉じられずに他の諸労働に開かれ連続しているので、孤立感や多重労働観をあまりともなわなかったと想像できる。
田中優子『江戸はネットワーク』

この家庭という生産単位が表にあって、さらにその表の社会システムからの脱出した先として、遊郭や芝居小屋を中心にした連という裏の生産単位が社会をまわしていたわけです。

ここにいまの社会的な行き詰まりを解くヒントがあるのではないかなと思うのです。特に遊郭や芝居小屋という悪所の存在を社会的に認めたところ、そこで副業的な生産が生まれ、それが社会を活性化していた点などは。

もうすこし、このあたりのことを調べてみようと思っています。



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