組織の創造性という面から考えても、組織そのものの存続自体が多様な創造性が発揮されることの妨げになっているのではないでしょうか。年配の社員が若い人間の力を伸ばすことができないどころか、その邪魔になっていることも多いように感じます。人を活かせなければ組織が機能するわけがない。
もちろん、年長者がすべて悪いわけではない。生涯勉強で、常に自分の外側の世界を見ようとする意欲を持ち続けているなら年長者はむしろ役に立つ。問題はそうじゃない年長者がいることです。年長の者が不勉強であるがゆえに、若手が持ち込む新しい技術や方法を受け入れられないし、それが結局、新しい目を摘み取ってしまうのであれば、不勉強とはなんと悪質なものなんでしょう。
生きることの一部を捨てて未来を売り飛ばす大企業
企業規模というのは、創造性について考えるのであれば、もう一度しっかり見なおした方がいい問題だと思います。例えば、IDEOほどの規模の組織であれば、イノベーションの方法、創造の方法を組織全体に行き渡らせることも可能でしょう。ただ、ある程度の規模を超えればそれも不可能です。
コミュニケーションの伝達速度を考えれば、一定の規模を超えれば、もはや創造性が要求するスピード感を満たせなくなるはずだからです。それはネズミに足を噛まれた恐竜がそれを認識するのに数分を要したかのように、すでに生きるための能力の大きな一部を欠いてしまっているのでしょう。
いまの大企業はもはや商品やサービスの生産によって生き長らえているというよりは、金融サービス同様に自らのもつ何かを証券化し、リスク・マネジメントすることによってのみ生き残っているのでしかないように思います。表向き、モノを作って財を成しているようにみえても、価値を生み出しているのは、ものづくりに似せた証券化の部分でしかないのではと思ったりもします。
創造性という人が生きる上では必要不可欠な部分を殺してしまった大企業は、もはやバーチャルな価値を将来を担保にグローバルに流通させることでしか生きていない。将来を担保にしてしまっているのですから、若い人たちに未来が残せるはずもないのです。
創造という機能をもったシステム
そんな馬鹿げた状態につきあっていたら、時間を無駄にすごすばかりで何も生み出すことができなくなってしまいます。ものをつくりだす・デザインするという面からも、新しいもの・価値のあるものを享受し消費するという観点からも、創造性を欠いた大企業のグローバル・ゲームにはもはや期待できません。
例えば、BRICS市場が魅力なら、さっさと大所帯抱えて中国にでもブラジルにでも組織ごと移住すればいいのです。それを遠い日本から中国の市場ってどうなんでしょう。それって、家にひきこもってネットサーフィンしてる若造と変わりません。自分では何もせずに何かをわかったつもりで何かを動かそうというのが虫が良すぎるのです。
「組織は戦略に従う」といったのは、レイモンド・チャンドラーでしたが、もはや戦略に従う組織など、ほとんど大企業には見られなくなってきています。
いや、従おうにも組織が文字通りの意味で機能しません。ましてや、創造のためのシステムとしての機能を求めようとすれば、大きすぎる身体は、先のコミュニケーション速度の問題を考えてもシステム化することは不可能だといってよいでしょう。
「連」という創造の形態
やはり大企業という組織に創造性を期待しても無駄なのでしょう。いや、いまの大企業のうしろをくっついてまわる日本企業の姿勢では、規模が大きくなくてもあまり期待できません。だとすれば、企業組織以外のシステムに期待せざるをえないか、と。ただ、残念ながら大学などにも期待できそうにもありません。では、どんな組織に創造という機能を期待できるのか?
どうも、それは既存の組織ではないような気がしてなりません。
そんなことをずっと考えているのですが、田中優子さんの『江戸はネットワーク』や『江戸の想像力』などを読んでいて、日本の近世の「連」という組織形態にはなにやら創造の機能を託す望みがあるのではないかと思いはじめています。
連は、会社組織などとは異質な一回性をもち、思想運動・芸術運動などとは異質な、純粋に機能的な性格をもっている。ひとつの具体的作業のために集まり、それが終われば解散する。田中優子『江戸の想像力』
「名と自由」でもすこし紹介しましたが、江戸の文化のほとんどは連という人のつながりの「場」から生まれています。和歌、狂歌、物語、小説、絵画、演劇、音楽などに連または座というネットワークがあって、そこで作品は協働作業的に創出されるのです。
俳諧連句。創作の方法が組織の形態を決める
この連という形態は「中世から日本詩歌のベースとなった俳諧連句の連なりの方法は、連の一現象である」というように、俳諧連句の創作方法そのものから来ています。五七五の発句に、次の人が七七の句をつけ、さらにその次の人が五七五の句をというように、場に集まった複数の人間が協働で作品を成す。その連句は最後の挙句(基本は36句)に至るまで連なります。もちろん、続けようと思えば挙句の果てまで続けられます。この俳諧連句における連の形態は、和歌や狂歌など似た世界だけでなく、絵画や演劇などにまで及び、連による創作という形態が江戸の文化を創出したのです。
ところで、俳諧の最初の発句の五七五のみが近代において取りだされたのが俳句ですが、俳句には俳諧のもっていた滑稽さのパワーが失われているといいます。もちろん、それは俳句を発明した正岡子規ひとりが悪いのではなくて、近代における個人化ととともに「近代人たちが文学とは自己表現だなどと勘違いしてひとりで部屋に閉じこもり、近代詩の権威にひれ伏してそれ一辺倒」になったことにすべて起因します。閉じこもって自己表現していると勘違いしているなんて、まったくさっき書いたBRICSかぶれの大企業そのものですね。
「連」は実際の働きによって保証される
いま組織のなかでものづくりやデザインなどの創造的な仕事をしようとすれば、どうしても組織そのものの存続だとか規律だとかに頭を悩ませて、結局、最後にはよいところは全部そぎ落とした無難なだけで何の魅力もないものをつくらされる羽目になる。先日「アート・芸術でいいんじゃないの。」なんてエントリーを書きましたが、大企業という非・創造的な組織においては、それじゃあ、よくないんですよね。だから、創造的な人間ほど悩むほかない。
でも、田中優子さんによれば、連の場で創作に従事していた江戸の人たちは、場の目的や名分について悩んだりはしなかったのだそうです。
彼らにとっての「場」は権威や論理によって保証されたものではなく、前提がはっきりしている以上、あとは実際の働きによって保証されるものだからだ。田中優子『江戸はネットワーク』
組織が存在するかどうかは、それが機能しているかどうかによるのであって、機能しないのであれば解散なんですね。あるいは、機能しない人が抜けていく。そして、機能する人を新たに連に入れる。組織そのものの存続を機能とは別に考えるなんてことはない。
連においては、
近代に日本になってからのように、集団や組織の理念が堅固なあまりその存続と規律がすべてに優先する、という現象は見られない。田中優子『江戸の想像力』
のだそうです。
組織や個人よりもあくまで機能すること。実際の働きによって何かを生み出すことに重きが置かれているんですね。いや、そもそも文化の創出に限れば、組織なんて発想はないし、個人に関してはそもそも概念がない。この身軽さが創造のシステム化には向いているのだろうな、と思うんです。
ゲイジュツかどうかは知らないが、これは事業なのだ
じゃあ、この江戸の連が商売を意識していないかというと、まったくそんなことはない。手間をかけるだけの充分な資本と、何度摺っても破れない紙があったとしても、これが筆彩画に劣るようなら錦絵は売れない。芸術だから売れなくてもいい、などとは、江戸人は考えない。ゲイジュツかどうかは知らないが、少なくともこれは事業なのだ。田中優子『江戸の想像力』
そう。「ゲイジュツかどうかは知らないが、これは事業なのだ」というのが、江戸の連という創作の場にあった感覚です。
この連というネットワークによる創造のシステムをどうにか現在において企業人の副業的な仕事の形態として機能させることはできないか。それが僕のいまの課題です。この連に近い形態でデザインの連をつくれれば、結構すごいことできるかななんて思っているのです。
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