デザイン:内/外の境を見てとり絶妙な間を生み出す行為

横浜ワークショップ2008に講師の1人として参加してきました。

まずは参加した皆さん、スタッフ・講師の方々、お疲れ様でした。
無事成功に終わって良かったと思います。それぞれに得るものが大きかったのではないでしょうか。もちろん、僕自身もです。

さて、27日、28日の2日間で開催された詳しい情報は「情報デザインフォーラム」のブログでご確認いただくとして、僕は僕なりに参加した感想、考えてみたことをまとめてみようか、と。

まず、2日間参加してみて、一番有意義だったのは、「デザインをするという一連の作業を監査する」ことができた点です。
フィールドワークによる観察にはじまり、ポストイットやフォトカードソートを使った思考、そして、最終的に「横浜の地図を描く」というテーマに沿った地図のデザイン、といった一連のデザインの工程を、参加した各5名ずつの7チームは2日間という短い時間で行ったわけです。僕はそれをつぶさに観察させてもらうという貴重な機会を得たわけです。
しかも、観察対象は7つもあったので、これはそれだけでもう貴重です。

その貴重な体験をさせてもらったなかで、僕の頭に新たにデザインの1つの定義が浮かびました。

デザインとは
内/外の境を見てとり
絶妙な間を生み出す
行為である


と。

見て、考えて、作る

今回のワークショップの最初に、はこだて未来大学の寺沢先生からの講義で、「横浜の地図を描く」というテーマとともに、参加者の学生・社会人に伝えられたこと。それは「何を見て、何を考えて、何を作る」かというホップ・ステップ・ジャンプの基本的なプロセスでした。



今回のワークショップでは先にも書いたとおり、フィールドワークからはじめて、最終的にチームごとに、横浜の地図を描いた作品のプレゼンテーションを行うようプログラムされていたので、普通にやれば「何を見て、何を考えて、何を作る」というホップ・ステップ・ジャンプをなぞれるようになっています。

この「何を見て、何を考えて、何を作る」ということを別の言い方で置き換えれば、以下のように整理できます。

  • 見る:インプットする:外から内へ
  • 考える:インプットをアウトプットに変換する方法を探る:内外の整理
  • 作る:アウトプットする:内から外へ

こう捉えてみると、「何を見て、何を考えて、何を作る」というのは、何かをデザインしようとすれば、ごくごく当たり前のことだと納得できます。

ただし、実際に参加して体験された方なら、よくわかるように、この言葉にすれば単純な三段跳びのプロセスも決してそれほどシンプルなものではありません。

内と外は最初から区別されているわけではない

例えば、「見る」という行為1つとって見ても、それは単純なインプットではないし、決して外から内へという一方向の流れがあるわけでもありません。実際には「見る」行為のなかにすでに「見て、考えて、作る」が入り込んでしまっています。

フィールドワークで物事を観察して何かを発見しようとする場合でも、「見る」行為が単純に外の物事を内側へインプットするわけではありません。気をつけないと、何か新しいものに出会っても、既存の知識の枠組みに当てはめて理解してしまいがちです。
はじめて出会ったものを既存の枠組みに当てはめて理解する行為自体、「考える」「作る」という行為を含みます。はじめて見たものを理解するのに役立ちそうな既存の枠組みがないかを「考え」、使えそうな枠組みを使える形に「作り」変えているからです。

実際、今回のワークショップでもフィールドワークから帰ってきたあとのチームごとの報告で、7チーム中6チームが既存の地図の上に見てきたことをマッピング(写真や体験をプロット)して説明していましたが、まさにその行為こそ、外の物事をもともと自分たちの手の内、頭の中にあった地図に当てはめてしまう行為です。それは外側を見ているようで、実際にはあらかじめ定まった窓枠・フレームワークの内側からフィルターをかけた状態で、外側の理解・記憶を作ってしまっているのです。



その行為においては、外にあるはずのものがいつの間にか内側で作られた枠組みに当てはめられてしまっています。もはや、それは外にあるものなのか、内にあるものなのかが判別できない状態であって、それを単純にインプットだとか、観察だとか呼ぶのはちょっと強引です。

自分の内側から出るのはむずかしい

内外が区別されずに入り混じって、そこで小さな「見て、考えて、作る」がグルグルと回ってしまうのは、「考える」や「作る」という段階でもおなじです。

多くのチームが自分たちが「見て」きたものを整理するのに、ポストイットにその要素を言葉として書き出して分類を行っていました。



しかし、そこにも気をつけなくてはいけない罠がひそんでいます。というのも、ポストイットに書きだす時は確かに自分たちが「見た」外側を書いているかもしれませんが、書かれたポストイットの文字を見て整理する際にはすでにそれは外側の物事ではなく、自分たちが書いた言葉を「見て」しまっているからです。そのやり方を続ければ外側の物事を整理しているようで、気をつけないと、単純に自分たちの内側をいじくりましているだけの状態になってしまうのです。

そうなるとフィールドワークとつながっているようで、つながっていないという状況が起きてしまいます。外で見てきたものを忘れて、自分たちがそこで「作」ったポストイットの言葉を「見て」「考えて」いるのです。せっかくの発見の意味も失われてしまうでしょう。
つまり、情報化することと、情報化された情報を扱うのとは違うということです。自分たちの体験を通じて外側にあるものを内側に吸収する情報化の行為には意味がありますが、すでにそれを終えた残滓としての情報をいくら弄んであまり多くは得られません。特にフィールドワークでの観察を大事にしようとしたら、それは強く意識する必要があります。

また、そもそもデータの整理を行う際に、外側の物事と、外側の物事から感じた感覚や印象、あるいは、外側の物事を見て考えたことがごっちゃになったまま、整理をしようとする人たちも多く見かけました。これは一見整理をしているような行為を行っているように見えますが、そもそも外と内との整理がままならない状態ですので、何を整理しているのかがわからず、実際その状態では整理することはきわめて困難です。
事実と感じたこと、そして、考えた意見は分けて、整理を行わないと、見えてくるものも見えてきません。事実は外側にありますが、感じたことや意見は内側にあるものです。内側にあるものをあたかも外から拾ってきたものと同等に扱っては、混乱が大きくなるばかり。ここは十分にその違いに敏感にならないといけないところです。



そして、「作る」という行為。ここでも当然、自分たちが作ったものを「見る」わけです。しかし、これが実は当然じゃない。実際に目の前で作っているものを客観的に「見る」ことはむずかしく、作業をしている際には実物を批判的に見ることができず、作ろうと思っている頭の内側のイメージを見たままの状態で作業を進めてしまうことがあります。ここでは「作る」という行為のなかで「見る、考える、作る」のループが回っていないことが問題なのです。

内と外を区別する線を引くこと

結局「見る」「考える」「作る」というどの段階においても、自分の頭のイメージの内側から出ることはむずかしいことです。外を扱っているつもりがどうしても内に投影した外を見てしまうという罠にはまってしまいます。

それは内と外の区別が見えていないからにほかなりません。

分かるということは何かと何かのあいだに線を引くことです。こちらとあちらを作る線を引くこと。内と外の区別をするというのも、その線をどこに見出すかということです。「見て、考えて、作る」という行為のなかで、「見る」ことと「考える」こと、そして、「考える」ことと「作る」ことの線をどこに引くかです。

「見る」ことの外側に「考える」「作る」を意識できるか。「考える」行為のどこに内外の区別を区切っていくか。その1つの1つの線引きがすでにデザインです。デザインをしようというのに、この線が引けないこと、この線を引くことを意識できていないのは、ちょっと問題です。

実際、今回のワークショップでは講師陣のあいだで、なかなか実際に絵を描こうとしないことが問題になりました。ポストイットに書いた言葉の整理、分析に、時間的にも意識的にはまってしまっているチームが多くみられました。
その分析が先に書いたようにすでに外にあるフィールドワーク、実際に観察した物事とのつながりをもたず、内側だけの操作にはまってしまうようであれば、物を作ることで別の「外」を意識的に作りだす行為に移らないと危険です。ただ、内と外の区別に敏感でないと、その危険も察知できないわけです。

境を見てとり、間を生み出す

その意味で、最初のデザインの定義になるわけです。

デザインとは
内/外の境を見てとり
絶妙な間を生み出す
行為である

必ずしも自明ではない境を見出し、それを空であると同時に満たされてもいる空間=spaceとしての間として表現する・具体化する。間は空間的であると同時に、時間的であり、物理的であるだけでなく感覚をもゆさぶるリズムでもあるでしょう。「間のデザイン」で書いたように「真」と「仮」の関係から出てきた「間」という日本独特のコンセプトは、完全に固定化されたものであるというより、奇に傾くことで常に動きのなかにあるものです。その動きを抱えたままの間をいかにデザインという行為において現出させるか。これほどむずかしくおもしろいことはないと思います。

簡単ではないが単純

最終的にデザインされたものを出すためには、自分たちの行為において、どう内と外の境界を見てとって、そこに適切な間=区切り線を引くかということが求められます。
また、内と外という意味では、何より作り手の外の人をどう意識できるかも重要です。自分たちの外側に線を引き、その向こうにいる人たちに、自分たちが感じたこと、作ろうとしているものがどう伝わるのか、伝えたいのかをイメージすることができるかです。

この内と外との境を見つけるためには、何より自分の視点を固定せずにさまざまな角度から物事を見るという自在性が必要です。さらには見出した境をいかにして意味/価値ある間として表現できるかという「作る」力も必要になってきます。
その「見る」ことの自在性、間を「作る」表現力をうまくバランシングさせてマネジメントすることこそが「考える」なのではないかと思います。「考える」とはうんうん唸ることでも、思考をいじくりまわすことでもなく、単にインプット/アウトプット、内と外に自在な区切りを見つけて、さっとそこに線を引くことなのでしょう。もちろん、それは言葉でいうほど簡単なことではないし、こう書いている僕自身、うまくそれができるかといえばそんなことはありません。

何より大事なことは、こうしたことを参加した人それぞれが多かれ少なかれ実感されたということではないかと思います。なぜうまくいかないんだろう?と考えながらも、2日間作業をした体験は非常に貴重だったのではないかと思います。本を読んだり人の話を聞いたりするだけでは絶対に得られない多くのものを学べたのではないでしょうか。
そして、何よりなんだかんだいっても、7チーム全部がきっちり予定の時間にちゃんとアウトプットを間に合わせてきたのが素晴らしいと思いました。

今回のワークショップで、7つのチームのデザイン作業を観察して考えたのはそんなことでした。

デザインとは決して簡単なことではありません。
ただ、それは「見る、考える、作る」というプロセスのなかで、どんな境を見出しそれを間として表現するかという単純な行為の連続によるものだということはできるのではないかと思いました。

参加された方が今日の体験を忘れずに、これからもそれぞれのデザインに励んでいってもらえたらいいなと思います。



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