定信お見通し―寛政視覚改革の治世学/タイモン・スクリーチ

世界は設計されている。

もちろん、設計どおりに用いられているかは別にして。ただ、設計どおりに用いられないことがあるのは世界の設計に限ったことではありません。複雑な機能をもった製品なら、多くの機能が設計されていても利用されません。世界の設計もそれと大差ないでしょう。

重要なのは、使っている意識もなく使われている部分がもっともうまく設計されている点であるということ。気づかれないことで設計そのものが機能するということは大いにあります。ただ、その逆に誰もが目を向けることではじめて機能する設計もあります。
設計には「魅せる設計」と「意識もされずに使われる設計」があるということなのでしょう。そして、この両方の設計がうまくバランスされたとき、そのデザインは見事に機能します。目の前の問題を解消して、利用者の生きる環境を安定させることになります。



寛政の視覚改革

タイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』は、外からは迫りくる西洋の脅威が、内では度重なる大災害が江戸や京の町を壊滅させ、遊郭や歌舞伎小屋などの「悪所」に閉じ込めたはずの文化が町を席巻するという、江戸幕府開府以来の危機に瀕した「寛政」の時代に行われた天下の大リデザインの様子を克明に綴った一冊です。

この政治と社会のシステムの中にいろいろ自然な展開が生じていき、18世紀の終わりには文化的緊迫の空気を生み出した。時流の急変は、記憶喪失の荒波にもまれて、生活のパターンが忘れられ、物質的形態が消去されていくことを意味した。内憂に加えて外患もあった。ロシアと英国をはじめとする諸外国による侵入が危惧された。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

十代将軍・家治から十一代・家斉にまたがるこの時代、老中として、またその引退後も寛政の大改革を推進したのが本書の中心にいる松平定信です。

ただ、本書は質素倹約で知られる狭義の「寛政の改革」を扱うのではなく、定信自身がやったこと以外のことも含めた、より大きな寛政の天下リデザイン全般を扱っています。リデザインと呼ぶのはまさに本書のサブタイトルにも「寛政視覚改革の治世学」とあるとおり、この大改革が視覚イメージの大規模な再編集・創造をもって行われたからです。

そして、このリデザインは「19世紀初めの2つの10年間で、かつて1780年代に打ち鳴らされていた継承は聞かれなくなった」という効果を発揮します。そして「警鐘は長く響き続けるべくもなく、次に聞くのは1860年代に徳川家がその最期を迎える話である」という具合に、瀕死の状態だった徳川幕府の延命を成功させたのでした。

過剰な量によるシステム崩壊~再構築へ

18世紀終わりの江戸の問題、日本の問題は、あらゆる量が既存のシステムでは処理不可能な状態に達していたことと見ることができます。

江戸の町は膨れ上がった人口の密集のおかげで、火事になればたちまち大火事になって町を焼き払いました。前の老中筆頭・田沼意次の治世では、エリート階級の過剰消費が貧しい階層にも及び、商人たちも美服美装に凝った。お伽噺のような虚の世界に生きる役者や遊女たちの華美な服装が浮世絵などの普及・流行も通じて市民社会にも影響を与えていたといいます。その上、西洋からは様々な新しい情報や物が入り込んでくる。ガラス、人体解剖図、遠近法、これまでの日本になかった視覚情報もいろいろと入り込んできました。もちろん、それらを整理する情報の体系は日本にはありません。
過剰な人、物、情報がこれまで秩序を形成してきたシステムを瓦解させたのです。

もっとも、他者の持てるものを自己成型に取りこむのは別に不思議でも何でもない。自己をつくるとは、そもそもそういうことなのである。異(foreign)なるものを取りこむことで、自らの過去の再編集ができるようになるし、第一、必要にもなる。異文化パターンと接することで、自らの空間の再-構築が避けられなくなったはずである。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

同時期に起こった過剰な量による既存のシステム崩壊が、定信の改革をはじめ、同時期に起こった寛政の視覚大改革を実行させたのです。

過剰な量によるシステム崩壊~再構築へ

「異文化パターンと接することで、自らの空間の再-構築が避けられなくなった」のは、視覚イメージを担う絵画でも同様でした。
形骸化した狩野派から離れていくことで、新たな視覚実験・視覚化の方法を確立した円山応挙、伊藤若冲、曽我蕭白など画工の行ったのも、いかにしてその頃、注目を集めはじめた西洋的な絵画、「写真=意味無シの図像」で扱ったような写実的で意味がない風景や静物画などに対して、どういう姿勢を取りうるのかということでした。

特に円山応挙はおもしろい。
応挙といえば、写実といわれます。ただし、若冲が鶏というこれまでの画題になかったものを描いたり、蕭白が奇想天外なテーマを画題にしたのとは異なり、応挙はあくまで伝統的な画題を絵にしました。ただし、テーマは同じでも画法が徹底的に異なりました。応挙は、昆虫・動植物の写真のような精密画、陰影法をもった西洋銅版画の模写、沈南蘋派の中国的写生法など、当時の日本で可能であったあらゆる技法を身につけていき、そのうえで「何の問題もなく三次元をなぞり出せる絵などは存在しないし、何を取捨選択し、どう扱うかが結局画家の仕事なのだ」という観点に立って、「画像が本当らしく見えるかどうかは、要するに目で見た要素の真実の感じを与える構成の中に配置しおおされているか否かの問題」を見事にクリアして写実的な画面を表現していったのです。

こうした応挙の絵は売れに売れた。そして、京都での評判が、江戸の浮世絵にまで影響を与えるようになるのです。それまでの狩野派の絵は、古典的題材を自分の派に伝わる画法で再現することに固執するという旧来のシステムのなかに存在していました。それを応挙が、新たに入り込んでくる西洋の写実画などと折り合いをつける形で、新たな日本の図像作成法・システムを生み出したのです。

京都の大火、再建されない天守閣

同じことが町の景観にも生じます。江戸と違って火事の少ない京都も、1788年の大火で町ごと壊滅します。古い多くの自社が焼失し、天皇の宮廷も焼けてなくなったほどの大火でした。

もちろん、もっと火事の多い江戸では、とっくに江戸城の天守閣は燃えてなくなっていました。京都にあった第2の城である二条城も1750年に焼失していました。しかし、江戸城の天守閣も、二条城の天守閣も、燃えた後に再建されることはありませんでした。

本の主題とはズレますが、ここでなぜ西洋では芸術の中心に位置づけられた建築が、日本においてはそうした位置づけに置かれなかったかの理由もわかります。

天は空を摩すが如く大廈高楼を立て、人々のためたるべき賜物を私するような支配者を憎む。将軍家も同じ感覚だったのであって、その第二の城、京師の二条城が1750年の大火で天守閣を失った時にも、再建しようとしなかった。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

この大廈高楼を憎む天、そのために防衛的必要がある時以外に大廈高楼を建てるのを嫌う権力者という図式は、『日本書紀』のオホサザキ(仁徳天皇)の逸話としても書かれているそうです。
そのため、もはや戦乱の時代の必需品として建てられた江戸城の天守閣も、二条城の天守閣も再建されることはなかったのです。

編集された「日本」

しかし、そうした例とは異なり、京都の大火で燃えた天皇の宮廷は1790年に再建されます。しかも、老中・定信の配慮によって。宮廷の再建のキーワードは「復古」でした。定信はこの宮廷の再建をはじめとして、寛政の視覚革命のテーマに「復古」を据えたのです。古代から続く日本というイメージをそこで再編集して視覚化・図像化してみせることで、日本というシステムの立て直しを図ったのでした。

定信は、その頃、多くなりはじめた市民による旅、そして、それにともなう名所の観光のために、古くなったり壊れてなくなっていた建物や橋などの修復にも手をつけます。歌に歌われた名所が現在それと違ってはいけなかったからです。それは元通りにするというよりも、歌のイメージにあわせて新たなイメージを再構築するという作業でした。その作業はまったくの捏造ではなかったにせよ、あくまで「復古」というテーマを満たすために過去の要素イメージを再編集して生み出されたものだったのです。

徳川が将軍家に就いた時には「国初」が宣せられたし、徳川がその地位を失った時にはバトン・タッチした主上が「維新」を唱えた。それらと比べれば定信ははるかに穏健である。その世界は政治的といわんよりは、はっきり文化的なものだった。この「文化」の多くの要素が、そもそも「ジャパン」と呼べそうな確とした観念さえあずかり知らぬ一世代前の人々を当惑させても仕方ないはずのものであったろう。が、結果はどうあれ、定信の企てが日本を"define"(境界付け/定義付け)したのだし、それは今なおそうなのだと言ってまちがいない。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

まさに日本という世界がそのときデザインされたのです。視覚を中心にしたシステムとして。

ただ、その「定信の企てが日本を"define"(境界付け/定義付け)したのだし、それは今なおそうなのだ」という、今の日本のシステムは定信が直面したのと同じ危機に瀕していないだろうか?
様々な整理不可能な新しい情報にあふれかえり、自然の脅威が次々と災害を起こしている現在の状況は、あまりに1780年代の江戸期に似ていないでしょうか?

そんなことを思いながら読んだ、非常に興味深い一冊でした。



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