唐はずいぶんと昔だが、唐詩の選ではもっとも新しい16〜17世紀の大流行りが、この李攀龍の『唐詩選』であった。田中優子『江戸はネットワーク』
この漢文詩の『唐詩選』だけでなく、ロングセラーになったのが『源氏物語』や『古事記』だそう。
『唐詩選』に関しては、
これは出版当時からどんどん日本に運び込まれ、服部南郭の校訂本が出るや否や、一刷りごとに2000部3000部を売り尽くして、幕末までに10万部出たと推測されている。田中優子『江戸はネットワーク』
といいます。
縦14.6cm、横10cmという文庫本のような大きさで持ちやすくしたために、売れたそうだ。同じ『唐詩選』でもより大きなものは売れなかったらしい。
パロディも売れた
この『唐詩選』をパロディ化した『通詩選』を四方山人こと大田南畝が書いて、1784年に出版されている。これが売れたというから、やはりオリジナルが読まれていたのでしょう。『唐詩選』の七言古詩「帝京篇」は、長安の皇居と天子への礼賛だが、それをパロディ化した蜀山人・大田南畝の『通詩選』「堺町編」は芝居と江戸への礼賛に書き換えられているそうです。オリジナルに馴染みがなければ、パロディが受け入れられるはずもないので、江戸の人は読み下し文表記の漢文詩を実際に読んでいたということなのでしょう。
もはやいまの僕らには読むための素養がない漢文詩がベストセラーになるような江戸の知識体系って、うまく想像することができませんよね。そこには結構深い断絶がありそうです。
日本を知らない
これも含めて、僕らはなんて日本のことについて知らないんでしょうね。いや、知らないことがあるのは当然として、知ろうとしないのはどうなんでしょうね。問題は異なる知識体系・環境にある文化をいまの目で見て評価することの間違いに気づけるかどうか。価値観の違いを想像できるかがまず1つ。蝋燭の明かりしかないなかで拝まれた仏像を、明るい蛍光灯のもとで評価しても、それは違うだろう、ということ。まずはその違いに対する無知を感じられるかということが大事かな、と。それが分からなきゃ、いまさえも狭い思考空間のなかでさえ評価できなくなる。すぐに袋小路にはまってしまいます。
だから、知らないこと自体はまだいいんです。知らないということさえ、知らないし、知ろうともしないのがいけないな、と。
わからないことさえ知らずにいたら、それはいつまで経ってもわかったふりですから。わかったふりほど、前に進む力を抑制するものはないわけです。
間−デジタルのあいだで、消極的に
知っていることと別の知っていることのあいだに「間(ma)」がある。そのあいだの「間(ma)」を大事にすることこそ、日本画昔から大切にしてきたことじゃないか、と(「「間」のデザイン」)。隙間を無視したデジタルではないわけ。0と1のどちらという極端な答えを求めるのではなくて、もっと消極的に(そう、極を消して)あいまいでいつまでも答えをはぐらかしつつ前に進む道を選ぶのが日本流だったのかな、と。オリジナルの隙間をパロディで埋めていくようなことをまじめにやる。そういう方法も江戸期にはあったわけですし。
何かを1つに断定して、それで終わった気になるよりは、知っていることよりも知らないことに忠実になるほうがよいのかな、と思います。
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自分はデザイナーではなく脚本家ですが、
いつも興味深く拝読いたしております。
間についてですが、映画監督のジム・ジャームッシュが、
自分の作品は通常の映画ではカットされる「間」のシーン
を映画にしている、とインタビューで応えていました。
(JIM JARMUSCH INTERVIEWS:東邦出版)
彼は日本の文化に関心が高いようですね。