アート・芸術でいいんじゃないの。

最近(といっても、そんなに最近のことでもないのですが)、デザインとアート・芸術をあえて分ける必要なんてないんじゃないのと思うようになりました。

よくデザインは他人の必要を満たすためのもので、アート・芸術はどちらかといえば作家自身の思想や哲学を反映したものという区別をしたりしますが、本当にそんな区別なんて必要なんじゃないでしょうか、と思うのです。
デザインだって、もっと徹底的にものや世界に対する自分の美意識にこだわっていいと思うのです。いや、むしろ、こだわらないといけないのではないかと感じます。

作り手の思想や哲学を感じないデザイン

特に、作り手の思想や哲学を感じないデザインをみると、そう感じます。

確かにプロダクトのデザインであれば、製品として成立することが第一だと思います。でも、それって決してそこに作り手の思想や哲学が反映されていることと矛盾することではありません。
プロダクトのデザインにだって、作り手の意志や考えが判断されていいし、むしろ、それが見えないからいまの製品ってつまらないものになってるんじゃないかと思うんです。

ものづくりが市場に躍らされている感がある。いや、ものづくりの結果、生まれる製品のデザインだけじゃない。昨日の「創意工夫がヤならデザインするのなんかやめればいい」で書いたように、その作り方自体に関しても、流行に流されるかのように方法ばかり重視したデザインに陥ってしまっています。
ユーザビリティだの、ユーザーエクスペリエンスだの、中身のない言葉にすっかり踊らされて、わけもわからないまま、何かとデザインの方法を使おうという馬鹿げた社会の雰囲気に流されてしまっているような印象を受けるのです。

そこにはまったく哲学がありません。ヴィジョンがありません。

自分の問題意識をもつこと

とにかく元からある解答ばかりを頼りにして、自分の力で答えを見出すということができません。いや、そもそも自分自身の問題意識をもつことができていません。問題意識がなければ、問題の発見もできないし、自分自身の問題を解決することもできません。外から与えられた問題をただひたすら、これまた外から与えられた方法を使って解くだけです。

「わからない」を自分の身で引き受けること」ということをしないので、注目を集めている手法や製品にばかり目が行ってしまう。

いや、まじめな話。社会で話題になっている以外の方法なり、ものの見方の参考になる情報を見つけたり、見つけたものにちゃんと関心をもって、それが社会で話題になっていようといまいと自分の問題意識にあっているかどうかで判断して、きちんとそれを摂取していこうという努力さえできない人がやたらと多すぎです。
Amazonで10,000位以内にランキングされてるような本ばかり買ってないで、それこそ100,000位以下の本で自分の興味をひくものをどんどん発掘して読み漁ってほしい。いや、それこそ「信頼した人の推挙に従う」という手段を使ってでも。
自分の業務の狭い範囲に関連した情報収集や話題の情報だけを収集して、それでいったい何ができあがるの? どうやって自分の見る目を磨けるの? 考え方を改めていくことができるのか疑問です。

そんなの残念ながら、情報収集の時点ですでに終わってます。勝負が。

もちろん、別に全部自前で片づけろという話ではなくて、外の世界のいろんな手法なり考え方なりを学ぶのはいいのですが、いかんせん、流行りの手法ではなく、自分自身の問題意識によって必要な情報を収集し、自分自身の視点で集めた情報を整理するということができていないのではないでしょうか?
学生や若手の社会人がそれができないのは良いとして、問題はいい歳した大人のほうがそれができないということ。前に「危機感・問題意識創出のためのプラクティス その5つの軸」というエントリーを書きましたが、とにかく自分自身の問題意識を見つけて、それにこだわって行動するという強い姿勢をいまからでも訓練して磨いてほしいと感じます。

アートや芸術との境のない、きちんと自分の思想や哲学のつまったデザイン

そういう自分自身の問題意識、自分自身の視点による情報の整理・編集、そして、もちろん、自分自身の日々の制作活動や他者とのコミュニケーションがいっしょくたになって、そこにアートや芸術との境のない、きちんと自分の思想や哲学のつまったデザインができてくるのではないか。
そして、大事なことは、マーケットの流れのなかで予定調和的にしかでてこない今のありきたりで骨抜きにされたデザインよりも、そうした作り手のこだわりが宿ったデザインのほうが結局は、買い手・使い手に届くものになるのではないかと思うのです。

iPhoneだって、そうなんでしょ?
ジョブスのこだわりが見えるから、あんなに惹かれる人が多いんじゃないでしょうか。

椅子取りゲームじゃなくて

そういうものづくりをできなくさせている多くの企業って、ほんと社会をつまらなくさせてしまってますよね。売れるか売れないか、顧客が望んでいるかいないかなど、置いておいて、本当に考えて考え抜いたうえで社会に対してこれを使った新しい未来はいかが?と問えるようなデザインを目指そうという方向に行ってくれないかな、と思います。
いまの市場で売れるか売れないかじゃなくて、新しい思想・哲学を体現したデザインで、新しい市場そのものを創出し育てるという努力がもうすこしあっていいんじゃないか、と。

そう。それって努力の問題ですよね。

限られた数の椅子とりゲームばかりじゃなくって、自分たちで新たな席を見つけ出すという思想や哲学を育てるというアート・芸術的な方向への努力がどうしてこうも欠けちゃってるんでしょうね?

もう、あんまりまわりの目ばっかりに変に気にしないで、ちょっぴり変人なアートな人、芸術な人でもいいんじゃないの、と思います。いや、実際にはそれくらいのほうが本当はまともで信頼のおける人に見えるはずですから。

ほんと、社会の創造力がこの上なく、弱くなっちゃってませんか?

この状況を脱するためにも、まずはこの情報が混乱した状態をそれこそ各自が自分自身の編集力を駆使して整理しきってみることが必要ですよね。情報技術なんかより情報整理のよっぽどいまの時代大事なことだと思います。

アート・芸術でいいんじゃないの。西洋においても、日本においても元々が分かれてなんかいなかったのですし。

ヨーロッパには「エクプラーシス(ekphrasis)」という芸術観念があります。あらゆる表現メディアは本来は同じ記憶の女神「ムネモシュネ」が孕んだ9人のミューズであり、その一人ひとりが音楽や詩などを司ると考えられていました。だから「姉妹芸術(sister arts)」という呼び方が出てきます。(中略)根本的にはあらゆる表現メディアは同じひとつの表現衝動に行きつきます。ここがヨーロッパの、特に18世紀のアートを理解するための大きなポイントです。

そんなことを今日、グッドデザインエキスポに行って感じました。
生活のなかにググッと入り込んでくるようなデザインがないもんなー。そう感じるのは、しゃぶしゃぶ用土鍋くらいでした。あとは技術のひけらかしにしか思えません。それ、デザインちゃうやん。
もちろん、全部をゆっくり見たわけないので、個々のものというより全体的な雰囲気・傾向として言ってるだけですけどね。

   

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