これは原研哉さんが『デザインのデザイン(special edition)』の「はじめに」で書いている言葉です。
デザインというものに関わる人にとって「わからない」ということにこだわる姿勢ほど、大事なものはないと思っています。自分が何がわかっていないかを見つめ、わかったふりをした状態から抜け出そうとしなければ、必要な形・物の輪郭など見えてくるはずはありません。
もがいてもがいて、作りに作って、悩みに悩んで、「わからない」ものに自分の手、目、頭で立ち向かうこと。そうやって目の前のわからなさを自分の身に引き受けられるかが重要です。だって、デザインの答えは自分で見つけ出すもの。だよね?
マニュアルや他人の情報を見て、それで何かをわかった気になることほど、デザインするという感覚からかけ離れたものはありません。
わからなさの不気味さ
西林克彦さんの『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』でも書かれていることですが、わかったつもりでいることほど、本当にわかることを妨げる障害となるものはありません。わかろうとしなければわかることはない。わかってるつもりでいれば人はそれ以上わかろうとはしません。また、わかるためには「わからない」という得体のしれない不気味なものにつきあう覚悟が必要です。
「わからない」というのは何かが欠けている状態、必要な情報が不足している状態とは違います。目の前にありありとわからなさという情報が存在していて、しっかりと目の前に目に鮮やかな姿を見せているにも関わらず、それでも、それが何なのかわからない。そういう居心地の悪さが本来デザインが相手にすべきわからなさです。
それは普通の人が普段「わからない」と口にする対象であるような、ある機器の操作方法がわからないとか、ある本に書かれた内容がわからないとかいうのとは、まったく異質のわからなさです。
未知なるもののリアリティにおののく覚悟はあるか?
だから、そのわからなさは実は最初からいつでもそこにあるものです。ただ、そのわからなさに人は普段は気づかないふりをしている。いや、本当に気づかないことも多々あります。では、そのわからなさはどうやって見えてくるのか?
むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することにつながる。原研哉『デザインのデザイン(special edition)』
知っていたはずのものを未知なるものとして見る。それには視点をすこしずらしてみることが必要です。普段とは違う世界からものを見てみるんです。それには自分が普段生きる世界とは異質の世界に身を投じることが必要になります。
ここに覚悟がいる。
何かというと「わからない」としょっちゅう口にするわりには、「わからない」ものに自分の身を投じることができる人は多くはありません。
安全圏からは決して見えない
「わからない」ということがもつ不気味なリアリティにおののく覚悟もがない人は、「わからない」ものからは一歩下がった安全圏から、ただ、それを排除しようとするかのように「わからない」と口にするだけ。わかる気もないし、もう少し深く認識しようなんてことはさらさらない。ただ、ひたすら、そこに不気味なわからなさが誰かが差し出すガイドブックの情報を見てわかった気になることで、気味の悪さを脱したいだけです。わからなさというもののもつリアリティには、普段の生活では感じ得ない不気味さがあります。そのリアリティの不気味さに耐えられないほどの精神しかもたない人は、「わからない」というまじないの言葉を口にして、その不気味さ漂うリアリティの世界から身を引いてしまいます。
しかし、残念ながら、その安全な距離にはデザインするという感覚が入り込む余地はないのです。
デザイナーのスタンス
このデザインにつきまとうわからなさに関しては、IDEOの創始者でもあるデヴィッド・ケリーもこんなことを言っています。典型的なデザインの状況にはいつも、方法のわからないものがつきまといます。デヴィッド・ケリー「第8章 デザイナーのスタンス」
テリー・ウィノグラード『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』
まさに「わかる」ための絶対的な方法というものはデザインに身を投じる限り存在しない。マニュアルも、答えが示されたガイドラインもない。そんな「わからない」ものに対処する方法もわからない状況でも、それに対峙して身を引かない覚悟がデザインには欠かせない。それが「デザイナーのスタンス」にほかならないのだと思います。
無数の見方や感じ方
そして、そのわからなさを自分の身に引き受けることではじめて、いつもよりもう少し深くものを見てみること、認識すること、経験することが可能になるのです。いろんな角度から物事に触れ、見つめ、分解したり、組み立て直したり、何か別のものと並べてみたり、普段とは違う場所に置いてみたり、と、ものを普段とは別の世界に置いてみることで見えてくるものがあります。
もちろん、それにはものだけを別の世界に置くだけではだめで、自分もそちらの世界に移動しなくてはなりません。自分の身に引き受けるというのはそういうことです。
そして、それはわかったつもりになっている状態、あるいは他人がマニュアルやガイドブックで教えてくれるのを待っている状態では決して不可能なことです。
「わからない」を自分の身で引き受けようとしない限り、世界は静かに固まったままで、何もはじまりません。
机の上で軽くほおづえをつくだけで世界は違って見える。ものの見方や感じ方は無数にあるのだ。その無数の見方や感じ方を日常のものやコミュニケーションに意図的に振り向けていくことがデザインである。原研哉『デザインのデザイン(special edition)』
無数の見方や感じ方は意図的につくりださない限り、自然と「無数」になるわけではありません。まっすぐに普段通りの道を行き来しているだけでは、見方や感じ方の数が増えることはありません。いつもの安全な道をちょっと踏み出すことではじめて「世界は違って見える」ようになる。自らの行為によって、自分の感覚をもった身体を外の世界に出さない限り、何かを本当にわかることなどないでしょう。
「わからない」は外の世界への入口
そして、その外の世界への入口を開いてくれるものこそが「わからない」なのです。わからなさが不気味なリアリティをもって立ち現れるのは、それが異世界への入口だからにほかなりません。その先にはマニュアルもガイドブックもありません。統計的予測が成り立つ世界でもないでしょう。その道なき道を自分の足で踏み分けていけるかどうかこそ、デザインに必要な感覚なのだと思っています。
「わからない」を逃げ口上にせず、「わからない」というこそがデザインの可能性を拓くものだということを心に刻んでおいた方がいいと思います。
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この記事へのコメント
よしはし
ありがとうございます。
tanahashi