もともと私には誰が何を推挙したかということを、とても重視するところがあります。学校の先生が推挙するものに関心をもち、著者が書物のなかで何かを推挙しているなら、まずはその推挙に従ってみる。そういうところがあるんです。ただし、信頼したい人の推挙じゃなければダメです。
実際、僕自身、新しい本やそれまで(よく)知らなかった人に興味をもつのは、信頼した人の推挙だったりします。
最近では、松岡正剛さんや高山宏さんの推挙に従って、バーバラ・M・スタフォード、タイモン・スクリーチ、田中優子、マリオ・プラーツ、フランセス・イェーツ、アビ・ヴァールブルクなどに出会うことができました。
最近はそのおかげで、図像学(イコノロジー)、ニュー・アート・ヒストリー、新人文学など、さまざまな呼ばれ方をする分野のイメージの見方に夢中です。

しかも、松岡さんがエライって思うのは、以下の部分。
さらに、いったんその人を信頼したのなら、どこまでもその人の推挙の先を追うとも決めていました。途中で変更など、絶対にしない。世間にはよく、あいつはもうダメだよとか、あいつは変節してしまったなというふうに言うことが多いのですが、あれはいけません。いったん信頼した者に対しては、こういうことは言わない。信頼はあくまで信頼であって、そんなエラソーなことを言わなくとも、充分に自分の思索や表現の変化や冒険をおこせるのですから、「そこへの従事」と「そこからの推挙」は切り離さないようにしてきたのです。
僕に関していえば、信頼した人の推挙であれば、いまの自分に直接関係しているかどうかに関わらず、その推挙に従ってみるということがあります。僕が興味をもって読んだその人が推挙するのだから、きっとそこにもおもしろいことがあるはずだと思って手にとるのです。
だって、明らかに自分が自分で自分に関係あるかどうかで判断する目より、自分がすごいなと感じた人が薦める眼の方が、きっと僕に合ってる可能性は圧倒的に高いと思うし。自分の限界を超えるためには、自分の内に頼るよりは外に頼る方が理にかなってるはずです。それも完全な外じゃなく、自分が信頼している外に従うというのが。
自分の殻のなかに閉じこもることを信念としている人にはおすすめしませんが、僕はこの人すごいなと思う人の推挙にはつべこべ言わずに従ってみるという姿勢をおすすめします。
そして、もう1つ付け加えると、やっぱり「本は「欲しい」という前に買え」ですw
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