名と自由

写真=意味無シの図像」で紹介したタイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』に続いて、田中優子さんの『江戸はネットワーク』という本を読んでいます。これがまた面白くて結構はまってます。

『ペルソナ作って、それからどうするの?』でも日本文化の特徴として取り上げ、「みんなで手を動かしながら考える」ワークショップベースのデザインに発展させた「連」という場。

従来ドキュメントベースで進められていた作業のプロセスを「みんなで手を使って考える」ワークショップベースのデザインプロセスへと変換します。従来、日本の伝統文化においては、連歌会や茶会、香道における聞香など、少人数のグループの寄り合いによる「遊び」の会が催されましたが、ワークショップベースのデザインプロセスのお手本にするのもそうした少人数での場の共有によるコラボレーションになります。

田中優子さんの『江戸はネットワーク』は、その連について、江戸のサロン、ネットワークとしての連を考察した本です。

ネットワークにおける無名性

まず興味をもったのは、連の場である俳諧連句の座や狂歌会において、参加者はそれぞれ俳名、狂名をもって臨んだという事実です。職人も、武士も、浪人も、町人もみな、俳名や狂名で遊びの場に参加することで「階級も身分も消滅させ」ていたそうです。

日本のサロンは、この無名性(または多名性)を1つの特徴としている。無名(または多名)であるからこそ、連の場は自由を獲得した。
田中優子『江戸はネットワーク』

ネットワークの場における無名性というと、現在のWebのネットワーク性を想起させますが、読んでいるとどうもそれとはすこし事情が違っているのがわかります。
Webのネットワークは文字通り、個人名を秘匿するための匿名性ですが、江戸の連の場における俳名や狂名をつかった無名性(多名性)は最初から秘匿すべき個人をもたない環境における、別の名の利用です。

隠すべきは個ではなく身分だった

以前に「「自分っていったい何なんだろう?」っていう問いの立て方自体が間違ってる?」で養老孟司さんが著書『人間科学』のなかで、江戸期の封建制度は、農民は農民、武士は武士という風に人を社会的に固定することによって、農民は農民としてのイメージを、武士は武士としてのイメージを社会における固定点として確立することで、それさえ守っていればあとの行動はどうでもいいという風にしたと論じていることを紹介しました。個としてのイメージを個性あるアイデンティティとして確立するのではなく、あくまで士農工商のイメージを遵守することが社会的に要求されたということです。

変転きわまりないものとしての個、それを停止させるための身分制度、そうした伝統のある社会に、逆に個を固定点として導入しようとすれば、あらゆる問題が生じて当然だろう。
養老孟司『人間科学』

個などは移ろいやすいものだから、それを固定しようというのがそもそも無理な話。であれば、身分という形の最低限の社会的固定点を置きましょうというのが、江戸期の発想です。だから、先の俳名や狂名をつかった無名性にしても、そもそも隠すべきは名は個としての名ではなく、身分としての名であったわけです。いかにも武士といったような名前を隠すために遊びの場では俳名や狂名が用いられたのだと理解してよいでしょう。

固定した1つの個に依存しないこと

そんな時代にあって、近世の文人たちは20や30を軽く超える名前=「号」をもっていたそうです。小説を書くときの号、俳諧をするときの号、大酒会なる酒合戦に参加するための号(佐藤権兵衛胸赤、斎藤伝左衛門忠呑など)、そして、遊郭にいくときの号もあったそうです。確かにスクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』でも、絵を描くときの画号が描く絵によって変化する例もたくさん登場します。

田中優子さんは次のように言います。

我々近・現代人の自我や人格についての意識では、想像するのがむずかしい。自己同一性への懐疑、無頓着、楽観を秘めている。「人間は変わるものだ」ということが前提になっており、自己の一貫性など、鼻もひっかけない。
田中優子『江戸はネットワーク』

個として立つことが、社会においても、市場においてもまだ意味をなさなかった時代、多数の号をもって生きることが、連というネットワークにつながり、その中で多彩な文化を生み出す原動力となったものでした。
固定した1つの個に依存しないこと、多数の名をもち、常に変わることができる姿勢を保つことは、様々な連の場につながるための前提条件だったのだと思います。

個とは、平均的市民のための魔術

松岡正剛さんは次のように言います。

結局、われわれは自分を「一人」とおもいこみすぎたのである。きっとこれこそが「近代」が中世の魔術に代わって平均的市民のためにつくりあげた魔術というものだった。

その『フラジャイル 弱さからの出発』には、万葉人が行っていたという夕占という占いが紹介されています。
人の顔がぼんやりとかすむ夕刻に人が集まる辻へと出かけ、男も女も自分が持っている櫛の歯をビーンと鳴らしながら、通りすがりの人の声に耳をすます。そして最初に入ってきた言葉で占いをする。その言葉は言霊で、人びとは言霊の音連れを待つわけです。未来を占う想像力のきっかけを誰かも判別できない通りすがりの人の言葉に託すのです。自分が選ぶわけでもなければ、誰かに強制されるわけでもない。ただ、外から偶然訪れる声を内で聞いて、未来を占うのです。
実際、顔が見えなくてもかまわなかったのでしょう。その時代に個を尊重する思考などなかったのですから。誰か顔の見えない人の声は、音連れる=訪れる神の声にほかならなかったのですから。私が、私が、とこだわるのは、まさに「平均的市民のための魔術」でしかないのでしょう。

そんな魔術から逃れるのに、匿名を使って個を隠しても仕方がないと思うのです。隠した個そのものが実際意味のない魔術の幻影でしかないのですから。

もし本当に自由を求めるのなら、「1つの個」「1人の私」などという小市民のための魔術からこそ逃れる必要があるのだと思います。それにはWebのネットワークやひとつの会社のなかなどから抜け出して、近世の江戸同様にたくさんの名前でつながったリアルな遊びのつながり=サロンの中にこそ身を投じるべきなのではないかと思うのです。

   

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