写真=意味無シの図像

まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!」の続編として。
そう。物事を見ること、描くこと、そして、理解することについて図像学(イコノロジー)的な考察を。

18世紀後半から19世紀初頭の江戸時代において「写真」という言葉は、現在のように'photograph'の意味ではなく、写実的な遠近法で描かれた西洋画、もしくは、それらに影響を受けて国内で描かれた写実的な要素のつよい風景画を指す言葉として用いられていたそうです。

文晁の海岸線の風景画は蠣崎波響の『夷酋列像』同様、「写真」と評された。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

ここでいう「文晁」とは谷文晁のことで、同時代の円山応挙らとともに「徳川時代の三大家」に数えられる画家です。
文晁、応挙の時代は、数少ないまでも西洋画が日本に入ってきた時代です。同時に、狩野派や土佐派などの伝統画派が描く絵が「真(まこと)」を描いていないという批判を浴び、写実・観察という言葉が注目され、応挙の写実のほかにも、伊藤若冲が鶏を庭に飼って、それを描くなど、すくなからず西洋画の写実が、江戸の絵にも影響を与えていた時代でした。



「意味無シ」の絵

そんななか、「写真」と呼ばれた一群の絵がある。ただ、この言葉はどちらかというと褒め言葉としてではなく、批判的な意味合いをもっていたようです。

文化に一向順応しない風景をひたすら克明に描くその迫真力のゆえに西洋画を「意味無シ」と断罪するようになっていく文晁であるが、その御当人はまさしくその様式のなさを利して、海防目的の絵のごとく様式ある描法などかえって邪魔になる風景を鋭意絵にしていった。海外線の景色などというものに、これといって目惹くものはなし、「名所」はなしというわけで、そこでひたすら「写真」を旨として描く他はなかったのである。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

ここで言われる「海防目的の絵」とは、時の老中にして寛政の改革を推進した松平定信が、迫りくる西洋の軍事力に対する防衛拠点を探るという名目で、日本各地の海岸線の景色を谷文晁に描かせた絵を指しています。
それは最初から文化のための絵ではなく、資料としての絵でした。その絵を文晁は自ら「意味無シ」と断罪した「写真」を旨とした技法で描いたのです。

「名所」が描かれない絵に人びとは首を傾げる

では、なぜ「写真」を旨として描かれた絵が「意味無シ」として断罪されるのか?

文晁が描いた海外線の風景画はその後、模写され、市中にも流出していきます。そこで「写真」がどいう評価を受けたかというと、「様式がむき出しになっていること、歴史とも文学とも関係なくひたすら風景を描いていることが、見る者に首を傾げさせた」のだそうです。

そう。ここがポイントです。
「歴史とも文学とも関係なくひたすら風景を描いている」ことは当時においては「見る者に首を傾げさせ」るものだったんです。ようするに、なぜそんなものが描かれるのかがわからない。描かれる意味がわからないんですね。ようは「意味無シ」なんです。

当時の絵が持っていた意味は、まさに歴史や文学に関係していることでした。
先ほどの引用で、<「名所」はなしというわけで、そこでひたすら「写真」を旨として描く他はなかった>という言葉を引きましたが、そこで言われる「名所」はまさにこれまで何度も和歌に歌われてきた名所です。
「逢坂の関」であり、「吉野の里」であり、「田子浦」です。

絵に描かれる風景は、和歌に詠まれた名所の景色であるか、歴史に関係する場所、あるいは禅画の山水でした。絵の意味はそうしたものに担保されていたのです。

まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!」で「これまでの知の秩序に入りきらない様々な情報が世界の各地から流通するようになった」ことで18世紀に情報の爆発が生じたことについて書きましたが、まさに、これまでの絵がもっていた意味にはおさまりきらないもの(「意味無シ」のもの)として「写真」による絵が登場したのです。

江戸のピクチャレスク

「写真」という絵はまさに既存の意味の体系からはみだしたものでした。

それが何の歌にもうたわれたこともなければ、歴史とも関係のない絵が描かれて目の前にある。意味はわからないが、ただ、それは目新しくはあったのです。
この「写真」という画法は評判を呼び、徐々にこれまで伝統的な画法で描かれていた「名所」も「写真」の方法で新たに描かれることになったりもします。

ただし、そうして描かれる「名所」はごく一部でもありました。「田子浦にうち出いでて」見る「白妙の富士」は「写真」として描いても絵になりましたが、必ずしも歌にうたわれた名所がすべて江戸期においても絵になる景色をもっているとは限らなかったからです。

そんなことも起こるのも、それまでの「名所」は実際には行ったことがない人でも、過去の歌からイメージを駆り立てられ、「名所」とかたく結びついた情緒をしたためるために、「名所」を歌に詠みこみ、絵に描きこんだのでした。行ったことがない人でも、と書きましたが、西行や芭蕉などごく一部の「数寄の放浪」者を除けば、むしろ圧倒的に行ったことがない人ばかりだったのです。

それが東海道など交通路も整備され、また、戦乱の世を終わり平安になったことで、実際に名所を訪れる旅が可能になりました。

もはや行けぬ所はない。肘掛椅子のというか、実地に行かず本や絵で知るばかりの模糊とした「名所」めぐりから、体を張った観光の旅がうまれる。
タイモン・スクリーチ『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』

そこで大きな変化が起こります。これまで歌のなかにあった絵が、自分で旅して目にすることで物質化します。そこでは「表象の芸術工学/高山宏」でも紹介したヨーロッパにおけるピクチャレスクと同じことが起こりはじめます。歌とともにあるイメージとしてあった名所が、物理的なものをともなう風景となるのです。

過去の「名所」からの断絶

そこでイギリスにおいても英国式庭園がピクチャレスクの影響を受け、絵で描いた崇高な景色を庭のなかに取り込もうとしたのと同様に、日本においても大名庭園のうちに名所の景色がそのまま持ち込まれます。ただし、過去の庭づくりと異なるのは、実際の庭園に名所の物質(例えば樹木)などがそのまま持ち込まれる点です。かつてのイメージが物質化する瞬間であり、それは西行や芭蕉における「名所」の空間性とは決定的に断絶しています。もちろん、その断絶もいまのこの致命的ともいえる断絶にくらべればかわいいものではありますが。

対決-巨匠たちの日本美術」で「新しい絵が生まれれば、社会における価値観にさえ影響を及ぼします。見ることの意味、描くことの意味も、描かれたものを見ることで、また変化する」と書きましたが、まさにここでは空間に対する意味の断絶が起きています。それこそ万葉のころから蓄積された和歌のイメージによって体系化されていた空間が、西洋画からの影響を受けた「写真」画の登場やそれと同時代に起こった社会的な変化を受けて、過去とは断絶した空間に変容するのです。

見ること・描くことの恣意性

まさに見ることの意味が変わり、描くことの意味が変わった瞬間です。見るということは決して自然なことではないし、ましてや見たものをそのまま描くなどということはありえない。まさに意味のあるものしか見ることも描くこともできないのですが、その意味そのものが必ずしも過去から一定ではありえないし、まさにその意味でも物の見方や表現に影響を与える意味は必ず恣意的なものでしかないということです。もちろん、それは個人の恣意ではなく、歴史・社会的な恣意ではありますが。

こうした見ること・描くことの恣意性があまりに無視されてしまっています。自分の見る目・表現する手が恣意的な現代の意味にがちがちに掴まってしまっていることに気づかないまま、その外側を想起できずにいる人が多いのだと思います。
いま見えてみるもの、いま意味があると考えているものは、必ずしもアプリオリに、そう見えているわけでも意味があるわけでもない。しかも、そこには自分の意志とはまったく無関係の歴史的社会性があるということ。そのことに無自覚であるままで、将来の絵を描くことなどどうしてできるのでしょうか?

デザインに関わる人がこのあたりに無自覚なのってどうなんでしょうと疑問に思うのです。何が自分に景色をいま目の前にあるものとして見せているのか。そのことを問わずになぜ現在の問題の外にあるはずの問題の解決策を見いだせるのか? 内と外の際に気づくためにはまず自らの視線の恣意性に気づかないといけないのではないかと思います。

   

関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック