まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!

仕事をしていてよく思うこと。

どうして議論をはじめる前に、手持ちの事実すべてをテーブルの前に開示してみることからはじめようとしないのか?

とにかく事実を見ないで仕事をはじめようとすることが多すぎる気がします。どうして自分の頭のなかにあるものをいったん外に出して、まわりと共有することからはじめようとしないのでしょう。自分の頭のなかは他人のそれとおなじだと思っているのでしょうか。自分が「赤」だといえば、それを他人もおなじように「赤」だと感じてくれると思っているのでしょうか。

議論の箱、そして、問題解決のボックスに入れるべき事実が目の前に提示されていなければ、どういう箱をデザインしていいか、そもそも箱のデザインのための議論をどういう方向にデザインしていいかもわからないはずです。僕がいろんな人と仕事していて、デザインの感覚がないなと感じるのはそういうところです。

「最初にきちんとデータ・コレクション(コンテンツ集め)をして、その上で分析によってバラバラのデータに関係性を見出す」。
これは「デザインの切り口」で書いた言葉ですが、とにかく箱のなかに入れるものにはどんな種類のものがありえるか、そのデータをまずはテーブルの上に並べてみて、そこにどんなものがあるかを分類しながら理解することの必要性をなぜ感じないのかが僕にはよくわからないのです。

情報というものは区別しなければ見えてこない

「分かる」ことは「分ける」ことです。松岡正剛さんも『17歳のための世界と日本の見方』でこんな言い方をしています。

情報というものは区別しなければ見えてこないんです。区別できていないものは、漠然として情報にならないんですね。もしここにいる150人の諸君を私が区別できなかったとしたら、私にとって諸君は情報にならない。烏合の衆である(笑)。

「分かる」ためには「分ける」必要がある。「分ける」ためにはまず「分ける」ためのものが手元に集まっていないといけません。手元になく、見分けもつかないようなものは、分けられないし、分からない。

まさに、その意味で森は森です。一本一本の木の区別は僕らではできません。木の一本一本が情報としては不可分であるために、僕らは森を森としてしか認識できません。せいぜいいくつかの木の種類を見分けるのがせいぜいなところでしょう。よほど特徴的な木でなければ道標にすることさえできません。

そして、重要なことは、僕らはかたまりとしての森は分かっても、その構成要素である木のひとつひとつを分からないために、再度、森を構成しようとしてもそれができないということです。
何がそこに含まれるかが分からなければ、それらを含む箱はつくることができないのです。当たり前のことなのに、何を入れるか、何の目的がそれを利用する際に期待されるかがわからないまま、デザインの作業が進められるのは決して少なくありません。



理とは元々机の上に置いたものを割っていくこと

とにかくテーブルの上にすべて載せてみて、それを分類してみることからはじまりません。

18世紀イギリスの視覚文化を見ると、とにかく「テーブルとは何か」にすごくこだわっているが、同時代日本にも「理(ことわり)」という観念がある。江戸時代の儒教の根本にあるのがそれだという。

この「ことわり」という発想がないんですよね。
ただ、これは上の引用にあるとおり、西洋でも、日本でも、すごく重要な方法として浮上してきた方法です。

なぜ18世紀にこの分類という方法が浮上してきたかというと、西洋ではキリスト教離れ、日本でも仏教離れをして、それまでの宗教で規定されてきた形とは別の方法で物事を理解する・わかる必要が生じてきたからです。神や仏に頼って、世界を物事を理解してきたのを、自分たち人間の力だけで分かるようにするという方向性にシフトしてきたときから、テーブルや卓の上で物を分けて理解するということが方法化していきます

「理」とは、元々机の上に置いたものを割っていくことである。「こと」は、シング(thing)。「割る」は、ディヴァイド(divide)。最初「こと割り」と書いていたのが、「理」となった。そもそも「理」とは、机の上で、みんなが見てわかるように事を割る、分けていくことである、と。そうか、前述の「分ける、分かる」の議論の根もここにあるのか。

江戸時代の儒教というのは、仏教離れの方法として選ばれているのと同時に、日本の中国離れに際して、朱子学や陽明学を元に日本化された儒教を創出しようという動きのなかで活気づくものです。「理」の解釈にしても、それは決して儒教そのものの「理」とは異なり、日本的に編集された「理」に変わっていると捉えたほうがいい。こうしたことが必要になったのは、まさに仏や中国から離れて、自分たちで物を見て理解しようという方向性から生まれてきたものです。

秩序化するあらゆる表象を区別せずに、すべてを「タブロー」として一括して扱う

一方の西洋では、先に書いたとおり、テーブルの上に載せてとりあえず分類してみるということが起こります。このあたりの話は高山宏さんが『近代文化史入門 超英文学講義』『表象の芸術工学』で詳しく紹介してくれています。

テーブルの上で物を分類することがはじまるためには、まず前提としてそれまで一家に一台だったテーブルが様々な用途をもったテーブルとして、その頃、同時に誕生しはじめた個室のなかにも、共有の部屋にも置かれるようになる必要があります。そして、宗教戦争の終了とともに交通の安全が確保された状況で(「バガボンド(放浪者)の経験知」参照)、世界のさまざまな地域から集められた物珍しいものが収集され、テーブルの上に並べられたり、実物を手に入れられない人の目にも触れられるよう、絵に描かれる必要があります。
そうした前段階があって、それまでのキリスト教世界には存在しえなかった情報の分類の必要性とその作業を実際に行うことのできる現実的条件が同時に揃ったのです。

1660年代以後の「古典時代」は「タブローの宇宙」であるとフーコーはいいますが、タブローはいわゆる「絵」を意味すると同時に、秩序化し、明晰化するあらゆる図示、図表も指します。タブローの意味のスクペクトラムのもっとも左側が絵で、右側にタイム・「テーブル」。フーコーが教えたのは、秩序化するあらゆる表象を区別せずに、すべてを「タブロー」として一括して扱うことでした。

タブローとテーブルは、同じラテン語の「板」を意味するターブラを語源としています。テーブルの上で、絵のなかで、そして、絵やその他美術品が集めれて、それがテーブルや壁に並べられたミュージアムのなかで、さまざまな事物を集めた百科事典のなかで、分類が行われ、それまでの世界とは異なる知の秩序が整備されていったのです。



もう新しい理論はいらない

つまり、そこには18世紀的な情報の爆発があったのです。これまでの知の秩序に入りきらない様々な情報が世界の各地から流通するようになった。情報の増加は新しい情報の秩序を必要とします。そこに生まれたのが、分類学(タクソノミー)だと言っていいでしょう。日本でいえば江戸時代のこと割りがそれと同時代性をもっています。

という経緯をもって、世界や物事を見る方法、その上で秩序やシステムをつくりだす方法として確立された、ことわりなり、分類学なりを、なんで仕事の現場でちゃんと使わないのかが僕にはさっぱりわからないんですね。
どう見ても、それよりうまい方法を知っているわけでもないのに、既存の方法を使わない。何かやってるうちに新しい方法が生まれるはずだとでも期待してるのでしょうか?

そんな新しい方法なんてあるのでしょうか?

フーコーは何を言ったかというと、もう新しい理論はいらないと言ったわけですね。知識は19世紀までのぶんで、もう充分にあるだろう。それを組み替え、組み立てなおしていくしかないではないか。そう、言った。これを現代哲学では「デコンストラクション」(脱構築)ともいいますが、私からすると、つまり「編集にとりかかれ」ということです。
松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい』

すばらしいものはもう過去に達成されている」。そう言ったのは、デザイナーの深澤直人さんです。

余計なことをしたくないということが前提ですからね。でもそれは最初から余計なことをしたくなかったわけではなくてむしろ余計なことをしてきたのです。古典的ですし、バウハウス的な感覚もどちらかというとあるし、ミース・ファン・デル・ローエに対する憧れもある。すばらしいものはもう過去に達成されていると思います。すべて完璧に達成されてしまっている。

新しいものを探す前に、過去に何が行われたか、生み出されてきたかという知識があまりになさ過ぎますよね。既にあるものを理解して使おうともせずに、場当たり的なやり方だけで、時間を無駄に浪費している。情報というものをどう扱うことで知として、価値として活かそうと近代が考えてきたのかも知らずに、デザインだの、情報技術だの言ってるのは、どうなんでしょう? とにかく世の中全体的に、基本的な勉強ができていないんじゃないかという気がしています。本当にみんな歴史に興味・関心がないし、また、歴史に対する知識が貧弱でびっくりします。

そういうところも含めて、まずはいろんなものをテーブルに載せてみなけりゃはじまらない。そう、感じています。歴史的に何が行われてきたかはもっと知る必要があるし、そのための勉強は欠かせないと思いますが、すくなくとも手元にあるものについてももう一度、テーブルに並べて再検討していく作業は必要です。
まさに松岡さんの言うとおり「編集にとりかかれ」なんですよね。

   

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