対決-巨匠たちの日本美術

大分書くのが遅くなりましたが、先週の日曜日に上野の東京国立博物館で開催されている「対決-巨匠たちの日本美術」展を見てきました。

「対決-巨匠たちの日本美術」公式サイトhttp://www.asahi.com/kokka/index.html



中世から近代までの日本美術史に名を刻む著名な絵師、彫師同士を2人ずつ組み合わせ、対決という形でのそれぞれの作品を並べて展示してみせるという趣向の展覧会。

運慶VS快慶、狩野永徳VS長谷川等伯、楽長次郎VS本阿弥光悦、伊藤若冲VS曽我蕭白、富岡鉄斎VS横山大観など、総勢24人12組の対決がみられ、まさに日本における中世から近代の時代の流れのなかで、人がものをどう見るか、また何を見るか、かつ、どう描くか、何を描くか、そして描くための方法の変遷を文字通り一瞥できておもしろかったです。

見えていないものは描くことはできない

当たり前のことですが、見えていないものは描くことはできません。普通の人には見えない違いも見えている絵師だからこそ、描けるもの、描ききることができるものがある。これはデザインをすることにも通じますよね。見るというインプットの重要性がそこにあります。

だからといって見えていれば描けるかといえばそうでもない。インプットできることとアウトプットできることは違うからです。アウトプットするためにはそれなりの技法がいります。どんなにものが見えていても画力が拙ければ絵にはなりません。これももうひとつのデザインの真実です。
線が引けなければ結局デザインにはなりません。そして、多少なりとも線の引き方を学んできたことがない人には、実際にヴィジュアルデザインを担当してくれる技術者に適切に指示することすらできないし、できてきたものをまともに評価することさえできません。本当に、最近、そういう場面に出くわすことが多くて時々イラついたりもします。単なる好みでものを言うんじゃない。素人が頭で考えただけの理屈でつべこべ言うんじゃない。独学でもいいから、絵を描く練習をしてからものを言いなさいって感じます。

視覚的イメージが社会そのものの価値観を変える

そして、さらにいうとアウトプットの方法が変われば見えてくるものが変わるということがある。いま読んでいるタイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』では、江戸中期においていかに視覚技術の変化により、政治や社会が変化し、また、変化させたかが綴られていて非常に興味深い。この展覧会の巨匠のひとりである円山応挙なども登場して、視覚イメージのもつ力というものをあらためて考え直さないといけないなという気になります。

このあたり「なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?」にも通じるところがあるのですけど、それは単に個人の問題というだけでなく、時代という大きな括りのなかでも成り立つことだと思います。社会において繰り返し画法が磨かれることによって、ある時、突然変異的に異なる画が生まれてくる。新しい方法で描かれた絵が。ただし、それは生物進化と同様に、前の画法で描かれたものから派生する変異です。そして、新しい絵が生まれれば、社会における価値観にさえ影響を及ぼします。見ることの意味、描くことの意味も、描かれたものを見ることで、また変化するんです

このあたりのことさえ、人がものを見るということについて、また、視覚化の技術のもつ力についてちゃんと考えたことがない人にはまったく見えない事柄だったりします。そういう人にはぜひ高山宏さんの『表象の芸術工学』や松岡正剛さんの『山水思想―「負」の想像力』あたりを読んでほしいなと思います。

会期はあさってまで。急げw

今回の展覧会は、そういう変遷を目の当たりにできて面白かった。

ただ残念だったのは、『山水思想―「負」の想像力』を読んで、ぜひ実物を見たいと思っていた長谷川等伯の「松林図屏風」が前期の実の展示だったこと。ほかの等伯の作品を見て、今回の24人のなかで一番好きだなと感じたので、よけいに残念でした。

あと長次郎VS本阿弥光悦では、あの比較では光悦があまりにかわいそうに思えました。あまりに技巧がわざとらしく感じられてしまうので。

会期はあさっての日曜日までですが、ものを見るということが決して自然なことではないということ、あるいは、視覚化するということの意味を考えてみたい人はぜひ行ってみた方がいいですよ。

    

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