本来であれば"極み"に到達すべく何度でも挑戦し磨き上げていくのですから、質を求めるほどに量が増えるというのが正しいのではないでしょうか。
まぁ、「本来」は普通に何かをつくろう、何かをつくりだそうとすれば、そこで追及されるのは、質をともなう成果でしょう。それを求めれば、試行錯誤が量を連れてくるというのも、まさに当たり前の話として通ります。
そんなものは誰も見落としていないんじゃないでしょうか。
むしろ、見落とされているというよりも、それに雁字搦めになっている印象。とにかく質を追求しなきゃとそちらにばかり目が向いてしまう。それが「本来」だとか「当たり前」であることから逃れる術がなくなってしまっている。それが問題。
そこで「本来」「当たり前」という形で一元化された方法以外に、オルタナティブな方法もあるよ、というのが「量追及ゲーム」の本当の狙いであって、そのことが見落とされているんです。あれはあくまで質追及の延長線上の量の話ではなくて、最初から量そのものの追求へとゲームの目的を変換することに意味がある。
本来の「質追及ゲーム」を、オルタナティブな「量追及ゲーム」に変えることです。
量追及ゲーム
このルールの変更は、ゲーム参加者の目先を変えます。「質追及ゲーム」では知識やプライドが邪魔して試行しにくいプランも、「量追及ゲーム」ならとにかく数をなので、そのプランがダメっぽくてもとりあえずやってみるという余裕が出ます。質追及が目的だと選択されないルートも、量追及ということで無理やり「余裕」を付加されてる量ゲームではどんなルートもとりあえず通っておこうということになる。
この余裕が意外な発見を生むよね、というところがミソ。
ノーマンは、メモやチェックリストの使用を例に次のように指摘する。メモやチェックリストを作業で使用している場面を第三者的に外から眺めた場合には、それらの道具は記憶と作業の遂行の両面を補助し、強化するもののように見える。しかし、作業を遂行している人にとっては、メモやリストを使うことそれ自体が新たな作業であり、しかも、その作業はそれらを使わずに行うのとはまったく異なる作業であると。このように、道具は、使う人の認知を強化するわけではなく、作業自体を変えている。川床靖子『学習のエスノグラフィー』
ルール変更で作業そのものを別物にしているのです。「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」で紹介したこの例と変わりません。
量が不自然な形で外部から与えられることの意味
質追及では自然に到達しえないような量でも、「量追及ゲーム」なら可能になります。ここがもうひとつのポイント。そもそも僕が「質より量に学ぶ - Radium Software」というエントリーをはてブする際にコメントに書いたのが「お百度参り。千日回峰。」です。
あの量の追求は、お百度参りや千日回峰のように、こなす量が他力本願的に決められている行に近い。量追及ゲームにおける量というのはそれくらい不自然であり、非-当たり前のものです。そして、その量が質とは無関係に外部から与えられることに意味があります。
トレーニング、学習における量
より日常的にあるもので近いものを探すなら日々のトレーニングがそれでしょう。トレーニングの場では、量が外的に与えられることが多いでしょう。今日はこれだけの量をこなすというのが決まっている。お百度参りの100、千日回峰の1,000という外的に与えられる量。それがお参りや回峰の本来の目的から実行者の目をそらして、お参り、回峰自体に集中させてくれる。しかも、量が目的になるので、質が達成されようとされまいと、決められた数を達成しなくてはならない。
この量の追求は、なぜか本来とされる量の追求とは別の意味をもちます。
むしろ、見落とされてるのは、こちらなのではないでしょうか?
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