もうひとつの量の追求

百聞は一見に如かず、といいます。
だとしたら、一見もまた百聞に如かず、なのでしょう。
そこを見落としてはいけません。

なぜ量が質を生み出す可能性を持っているのか?」では、自身が手を動かすことで得られた多量の経験値を元に、反省し、編集することで、新たな知を生み出し、それを利用する方法があるということを書きました。
いわく、質より量、とりあえず、やってみよう、と。

でもね、それだけやってればいいってもんじゃないんですよね。
というのも、どうしても個人が自分の手で作業を行える範囲って限られますから。自分の経験によって得た知だけに頼ろうとすれば、知は深まることはあっても、広がらない。

井の中の蛙大海を知らず されど空の高さ知る。

そう。深さ-高さに関する知は、自分で手を動かす量によって、深め高められます。
空の高さを知ることはできても、大海の広さを知る方向には向きません。

じゃあ、どうするの?
はい。そこで一見は百聞に如かず、です。

他者の方法を感じているか?

もう、想像できた人もいますよね。実は自分で手を動かしながら考えることとは別に、もうひとつの量の追求が必要だと思うんです。

それは他人が手を動かしながら思考した痕跡を辿ることです。
つまり、出来上がった他人の作品から方法をリバース・エンジニアリングすることです。

私が絵画にショックをおぼえたのは、最初がラファエロやミレー、ついでダリやエルンスト、その次がターナー、ボッチョーニ、フェルメール、岸田劉生、与謝蕪村、藤原隆信などなどだったと憶うけれど、それらの何を見ているかといえば、ダリの方法、隆信の方法を見ていたというしかなかった。こんなこと、なにも私が強調しなくとも、きっとだれもが感じてきたことだろう。

「きっとだれもが感じてきたことだろう」と松岡さんは言ってますが、残念ながら、おそらくはそれは「だれもが感じてきたこと」ではないでしょう。できあがった記号として作品を見るだけで、その背後に方法を感じることができる人はそれほど多くはないと思っています。

でなければ、他者の作品、言動を前にして、批判が先に出て、感動や共感が続くことがすくない理由が思い当たりません。
なにかといえば、他者の挙げ足をとることやそんなの知ってるよとポーズを決めることに熱心で、他者の方法を読み取り、そこに参与することができないのが現代の病気ともいえるのではないかと思っています。

まさにオペレーションしてしまっていて、ドライブしていません。
トキメキについての感性がない

他者の方法を掴みだす

まぁ、そういうオペレーターの不幸は置いといて、ドライバーたちの話を進めましょう。

(話はまったく逸れますけど、デザインやってる人は、コンピュータの操作と車の運転における経験の違いにもっと敏感になって、もっと思考を突き詰めた方がいいと感じます。わかりやすさなんて追及してばっかりじゃなくてドライブ感も同時に追求しなさいって思います。でも、それって結局、質量が関係してくる話なので、この話ともまったく無縁じゃないんですけど。でも、そこを話すと長くなるのでまた別の機会に)

僕はこちらの他者の方法に入り込み、そこで自分の感情をドライブすることに関しても、自分で手を動かして経験を得ることと同じくらい、量が大切になると思っています。

簡単にいうなら、どれだけ他者の作品、他者の考えに触れるかってことです。

そして、百聞は一見に如かずであって、おそらく、自分で経験する量の百倍は量が必要になってきます。それこそ、適当にオペレーションしてしまってばっかりじゃ、百倍をこなすためには出会いの量が足りなくなります。その意味で、本当は適当にオペレーションしてこなしてしまっているような余裕なんてないはずなんですよね。

他人の作品や考えに対峙した際に、アホみたいに自分がみてとった批判ばかりをあげつらって満足してるようじゃダメなんですよね。それこそ、不満や批判を口にするだけならアホでもできます。
そうじゃなく、他人が作品や思考を生み出した方法を辿って、それをつかみとってみろ、と言いたい。単に結果だけみてダメだとかなんだというのではなく、なぜ、その結論に到達できたかをその過程に遡行的に参与することで掴みだしてみろ、と。外側から距離をとって安全圏から操作するんじゃなくて、内側に入り込んで間違えば自分も危険かもっていう状態で運転しないとね。そっちのほうがよっぽど立派で、自分のためになると思うから。

「客観的に正しい」? なにそれ、おいしいの?

結果が客観的にみて正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。見るべきところはね。

たとえ、間違いにしろ、他者がどうしてその間違いに至ったかを、その他者当人同様に、主観的な目でドライブしてみなきゃ、意味はありません。他者の結果をオペレーション的に批判したって、他者にも自分にも何の得もない。まわりの誰にも得はないしね。

他者の方法を知るというのは、それこそ、やってるうちにわかるようになりますが、他者の他者の方法を知ることでもあったりします。他者の方法をみようとすると、他者の方法のなかに、また別の他者の方法へのつながりが見えてきます。その関係性のリンクをつなげていくところが、結局、大海の広がりを知ることにつながっていくんですね。

大海を知るには、そんな風に他者の方法を自らドライブする心掛けが必要なんだと思います。そして、その量を追求することが。

  • 自分で手を動かしながら考えること。
  • 他者の作品・思考に触れて、その背後にある方法を自ら追体験的にドライブすること。

この2つの量の追求こそが、知の高さと広さをバランスよく向上させてくれるのかなと思います。創造性ってこの両輪があってこそですから。

   

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この記事へのコメント

  • Soichi

    7行目に「量より質」と書いてありますが、これは「質より量」としないと文脈的におかしくないですか?
    2008年08月13日 08:11
  • tanahashi

    ほんとですね。修正しておきました。
    ありがとうございます。
    2008年08月13日 08:28

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