経験と方法

最近、経験の力というものをよく感じます。

経験を積んだ人は見えるものが違うし、相手が何が見えていないかを察する力も違うのだなと感じます。同じものを見ていて、同じことを話していても、経験を積んだ人の視野は広範囲に渡っていて、かつ深い。1つ見れば、そこに存在しない別の可能性をいくつも見通すことができる。この経験者が見通したものを、他の人たちにも共有できれば、どんなによいものか。

でも、実際には経験者が自分が見えていることを、経験のない人に話してわかってもらおうとしてもなかなかむずかしいんですよね。しかも、それは経験者の言語力の問題によるものだけじゃないというところが問題をむずかしくします。

同じくらい経験してる同士なら、多少、言葉が足りなくても伝わるし、言わなくても相手がわかってるかどうかを察することができることでも、経験の度合いが違うと、そう簡単にはいかなくなる。丁寧に言葉を選んで伝える必要があるし、場合によっては、具体的な例で示してあげる必要があります。
一番の問題は、それをやっても伝わらないケースは少ないということ。例をあげて説明した場合でも、その例の内容は理解できた、でも、それの何が問題なのかが経験がないために理解できない場合もある。こうなると、結構、お手上げです。

失敗した人にだけ伝わることがある

本を読んだり、他人の話を聞いただけで、何をわかろうというのですか?」では、こんなことを書きました。

とうぜん、レシピだけわかっても料理をうまく作ることはできません。うまく作るためには自分で何度か実際に料理をしてみて、あー、こうすればうまくいくのかというコツを自分でつかむしかないのではないでしょうか。

また、実際に自分で料理をしてみて失敗の経験をしている人なら、さらに言葉でアドバイスすることもできます。同じ経験を共有しているもの同士なら、言葉で補足することは可能です。

これ、まさに僕自身の経験でもあるんですよね。

昔、僕が大好きなWebディレクターの女性に、あるプロジェクトをやってる時に「なんて言っていいかわからないんですけど、すごく危険な感じがするんですよ。ディレクターだからわかるんですけど、どうやって説明したらいいかわかりません」というようなことを言われたことがあるんです。
僕はその時、その人がそういうなら危険なのは間違いない、と思ったんです。ただ、それを理解してあげられなくて悪いなと思ったんです。どうにか言葉にさせてあげようと、いろんな質問をしてみましたが、ダメでした。だって、問題は彼女の側に言葉が足りないからじゃなくて、僕の側に経験が足りなかったからなのですから。

失敗の経験が視野を広げる

でも、いまはその彼女の言葉を僕自身が使いたくなることがたまにあるんですね。

というか、先日、ほとんど同じようなことを言ってしまいました。いろいろな角度から説明してみたのですが、伝わらないことがあって、「いろいろ経験してるからわかるけど、危険な感じがするんだよ」って、そう言ってしまったんですよね。

そんな言葉が出るのも、僕も失敗の経験を何度も繰り返してきたからにほかなりません。他人に影響を与える失敗もしたし、自分のなかで失敗したなと思える経験もしました。それこそ、きっと100以上のWebサイトのプランニング、設計に関わってきたと思いますから、いろんな失敗の経験はしてこれたはずです。その積み重ねが経験として、僕自身の視野を確実に広げてる。以前見えなかったものが見えるようになっている。たまにそういうことに気づいたりします。

方法はレシピとは違う

と、そんな経験のもつ力を感じると同時に、「方法」という言葉の意味をあらためて考え直してみたりもしているんです。

方法というのは、先の引用中にあったレシピとは違うんですよね。
作業や操作の手順、必要な材料、ちょっとしたコツなどを書きとめたものがレシピなんだと思いますけど、それは方法の記述とはちょっと違うなと思うんです。

その意味ではマニュアルに書かれた方法っていうのも、実はかなり限定的な意味での方法なんだと思います。操作方法など、手順どおりに間違えずに行えばOKな、何らかのシステムを利用するための方法なら記述も可能でしょう。申込方法、購入方法、検索の方法。そういうものも相手がWebなどのシステムであれば言語化可能です(まぁ、それを読むかどうかは別としてね)。

マニュアル化できない方法

でも、手順どおりにやればいいってもんじゃないものは世の中にはたくさんあります。
前に「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」というエントリーでは、操作手順さえ間違えなければ使えるiPhone/iPod touchをはじめ、いわゆるデジタル機器のデザインと、操作の仕方や手順を頭でわかっただけでは使えない自転車、楽器、筆などの道具のデザインはまったく違うということを書きましたが、まさに自転車の乗り方、楽器の演奏の仕方、筆での上手な字/絵の描き方は、テキストや図表などを使ったマニュアルだけではどうにも伝えることができません。

方法っていうと、なんとなくそれさえ知れば経験がなくてもできそうな印象を受けると思いますが、まったくそうじゃないんですね。
方法自体を使えるようになるのに、まず経験がいるし、経験なしでは方法そのものを理解できないし、使えないということが多いというのが本当のところなんでしょうね。そして、方法がわからなければ、何もできない。うーん、その意味で経験というのはなんて重要なものなんでしょうね。

方法と経験

ここに方法と経験のつながりがあるなと思うのです。経験によってはじめて身につけられる方法というのがあります。

1回でも経験した人に伝えられる方法、何度かの経験でなんとなくいくつかのコツがありそうなのはわかってきた人に伝えられる方法、そして、何度も何度も経験してほとんど自分の方法を生み出した人に対してのみ伝えられる究極的な方法みたいなものまで。経験のステップを踏むことで、学べる方法のステージは確実に違ってくるはずです。経験という量をある程度、こなすことが結局、質そのものに影響を与えるということがあるのだと思います。

量に向かうことは、質の変化に克明につき合うことを意味します。そうした経験が、できた瞬間に茶碗を壊すかどうかといった判断力につながるはずです。
内田繁/松岡正剛「エピローグ・デザインの二十一世紀へ」
内田繁/松岡正剛 編著『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

そう。量が質の違いを見る目を変え、高度な判断も瞬間に可能にできるようにするということがあります。これには量を積み重ねるステップが必要です。

累積によるデザイン

ただし、量にまで達しなくとも、ステップそのものが大事なこともあります。それが「デザインなんて一足飛びでできるものではない。」で書いたことなんだなとあらためて思ってみたり。あそこで書いたのは1つ1つデザインのプロセスを進めていきましょうということでしたが、あれも1つ前のステップを経験しているから、次のステップで問題が見えやすくなるわけです。
デザインプロセスの場合、基本的に各段階は1回のみの経験ですけど、それが抽象的なところから具体的なところへ、大まかな部分からより細かなディテールへ、と前の段階での経験が階層化されて積み重なることで、最終的なデザインに到達することができるんですよね。

結局、生物デザインの進化と同じです。
ヒトが使う道具のデザイン2:ドーキンスの「累積淘汰」」で紹介しましたけど、生物進化も前の段階のデザインを踏襲しながら、累積的な進化の道を歩むことで、可能性の数を大幅に絞り込み、進化の速度をあげているのですから。

いろいろな死んでいる方法の数は、いろいろな生きている方法の数よりはるかに多い

遠藤秀紀さんの『人体 失敗の進化史』という本では、爬虫類の顎の骨があったから、それを拝借して人類の耳小骨(ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨)のデザインが可能になったことなど、人体のデザインそのものがそれ以前の生物のデザインを編集し直すことで可能になっている例がいくつも紹介されています。

なぜ、そんな風に前のデザインを踏襲する必要があるのか? 僕はドーキンスの『盲目の時計職人』での、この説明が好きです。

いろいろな死んでいる方法の数は、いろいろな生きている方法の数よりはるかに多いのだから、遺伝的空間のなかで大きくランダムに跳躍したときに死にいたる見込みはきわめて高い。遺伝的空間におけるランダムな跳躍はたとえ小さくてもやはり死にいたりやすいだろう。しかし、跳躍が小さくなればなるほど、死ぬことは少なくなりそうだし、その跳躍が改善になることが多くなりそうだ。

「いろいろな死んでいる方法の数は、いろいろな生きている方法の数よりはるかに多い」。無暗に跳躍すれば、ほとんど死にいたるわけです(ドーキンスはそれをバイオモルフというコンピュータ・シミュレーション生物を使って示しています)。



死んでしまうわけだから、その先はありません。そうではなく、前の段階があるからこそ、次の選択肢が生まれるというわけです。

景色を見る方法は、景色が見えるようになったときに方法になる

これは経験が新たなステージを用意するからこそ、次のステップへの道が開けるのと似ています。

次のステージに進めてはじめて見えてくる景色もある。その新たに見えた景色に対して、どう行えばいいのかという方法が必要になってくるのと同時に、すでにその景色に到達するための方法は身につけられていたりもする。最初は方法があるから景色が見えるのではないんですね。景色が見えるようになったとき、方法が身につくんだと思います。これは鍵と鍵穴の問題ですね。

言葉があるから物語が語れるのではなく、物語を語れたときに語る方法としての言葉が生まれるのでしょう。
方法の獲得というのも、単に知識として手順などを知ればいいのではなく、方法そのものを経験を通じて身体に覚えさせなくては、方法を知ったということにはならないのでしょう。

前に「機会がないとか経験がないとかいうけれど」で、機会がないわけでも経験がないわけでもなくて、行動力がないだけな場合が多いと書きましたが、ほんと経験ってのは大事ですから行動するのを躊躇してる場合じゃないと思うんですよね。

というか、このエントリー自体、経験がない人には伝わらないのかも。 

   

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