デザインなんて一足飛びでできるものではない。

解決すべき問題あるいはユーザーのニーズ。
そんな姿形もないものをいかにしてデザインという姿形の決定を司る仕事につなげるのか?

それには「はい。解決すべき問題(ユーザーのニーズ)は理解しました」→「じゃあ、このデザインで行きましょう!」という風に一足飛びに、最終的な姿形が見える人はそうはいないと思っています。
特にデザインの経験、修羅場をくぐってきた数が少なければ少ないほど、そんな奇跡的な飛躍は不可能なはず。

でもね、そういう人に限ってそれをやろうとする。問題が与えられたら、すぐに最終的な形の話をしようとします。しかも、やたらとディテールな話です。部分だけ見えてて全体は見えていない。全体の構造も輪郭も見えてないのに、やたらと部分的なパーツの具体的な話をしたりします。気持ちはわかるのですが、それだと残念ながらうまくいかないんです。それは本当に残念な結果になる。

僕なんて、そういうのを目の前にしてしまうと「そんなのもっとあとで決めればいいのに」と感じてしまいます。それよりさ、いま決めるべき、ゴールはどこまで? そう問いたくなります。だって、順番どおりにやったほうが結局は早いのがわかってるから。



時間がないのではなく方法がない

そうなんですよね。デザインって本当はちゃんと決めるべき手順があるんです。
根っこから順番に決めてかないと、枝葉も伸びないし花も咲きません。

で、根っこや幹などの芯となる部分をおろそかにしたまま、部分としての花や葉っぱに目を向けてしまって、そこばっかり先行して決めてしまうと、じゃあ、こっち側の花や葉っぱはどうするんだっけ?って議題になったとき、どうしようもなくなったりします。
そうなれば結局、一回咲かせた花もむしりとって最初から幹を育てるところからはじめなきゃいけないこともある。いわゆる手戻りってやつです。

そんなやりかたじゃあ、いくら時間があっても足りるわけありません。それ、時間がないのじゃなくて、方法がないんですね

ものを動かすのは主題ではなく方法

まさに「日本という方法―おもかげ・うつろいの文化/松岡正剛」で書いたように「方法が苦手な人」が多い。方法なしでもデザインができると思っちゃってる。最終形を知ってるからって、それを再現できるとは限らないですよ。そのことをちゃんと考えたほうがいい。知ってるつもりは何も生み出しませんので。
何より僕ら人間は普段よく見て知ってるつもりですけど、だからといって人間をつくることはできません(あっ、ひとつ方法はあるけど)。

松岡正剛さんは『山水思想―「負」の想像力』のなかで、方法がなければ何もはじまらないといっています。主題ではなく、方法が何かを実際に動かすのだ、と。

そして、

方法こそが思想であった、方法こそが芸術であり、方法こそがデザインで、方法こそが音楽だとおもっている。

という松岡さんの言葉は、僕自身の経験的にも正しいと感じます。

何か解決すべき問題があるからデザインができるわけではないのです。そんなことなら様々な問題がもっと解決されていていいはずです。でも、実際にはそうはならない。
「世界平和・環境保全・飢餓絶滅・経済成長」、これらの問題は誰もが解決しようというのに反対はしません。ただ、主題は共有されても何も動きません。実際に動かすのは主題ではなく、方法です。方法がなければ、何も実際には組み立てられません。

方法はなかば自動的に、なかば自然発生的に

同じようなことが、いま読み終わろうとしている『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』という本にも見出せます。アルス・コンビナトリア=結合術について考察れた本です。結合のための術、そう。方法です。

ポエジーとポエジーについての会話は、言語自体の力に身を委ねることによって、無目的に自然発生的に生まれるべきである。(中略)したがって言語の意味論的なレヴェルではなく、音楽的統語論的レヴェルが言語の自律性と力の根拠となる。こう言った方がいいか、意味論を支持してくる要素はシンタックスと音楽の中に含まれているのだ、と。
ジョン・ノイバウアー『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』

少々、難解なので補足すると、ようするにポエジーというものは言葉の意味によって生まれ出るのではなく、言葉のリズムや韻などから生じるのであって、ポエジーの創出にはそうした方法を身につけることこそが肝要だということです。さらに言うなら、その方法を身につければ、ポエジーはほとんど「無目的に自然発生的に生まれる」のだというところが肝心です。

方法。その目的は、最小の努力で、最大の成果に到達することにある

それはデザインでも同様で、やたらと意識のうえでこういう形にしたいなどと部分をイメージしてみたって最終のデザインが完成することはないんです。

そうじゃなくて、デザインの方法を(何度も修羅場をかいくぐることによって)身につけた人が、ほとんど最初の瞬間に描いたぼんやりとした全体像を、それを具体化する際に方法が作動する。いや、方法がその後の作業を的確に作動させるのです。
問題の明確化・構造的把握、そして、そこからあらためて行う要件の全体把握、そして、それに続く複合的な改善案の構造化をともなう統合による単純化、さらに、その構造を元にした具体的な骨格の提示、そして、最後に視覚的イメージの創出と、そういった根や幹から徐々に枝葉を伸ばして、最後に花を咲かせるといった生成のプロセスを踏まないと、まともな姿形が生まれるわけもないと思います。

構造が決まらなければ骨格はできないし、骨格がなければそこに表層の視覚的デザインはのりません。幹のない花も、骨のない美貌もありません。それには必要な要素を一覧化し、さらにそれを構造化するステップを省略することはできないはずです。だから、デザインにおいては情報の構造化が大事だよって繰り返し言ってるんですね(「ユーザー行動を構造的に分析するための5つのワークモデル」、「関係性を問う力、構造を読み解く目がなければデザインできない」、「千葉工業大学で「情報の構造化とHCDプロセス」という話をしてきました」、「絵の多義性とタクソノミー(フォトカードソート・ワークショップを終えて)」などを参照)。

ただ、いくつも修羅場をくぐってきた人は、それが自然と身についてる。だから、こんな論理的な感じで方法を駆使するまでもなく、自然とできるというだけにすぎません。

ブルーノ・ムナーリも言ってましたよね。

企画の方法とは、経験から論理的に順序づけられた、一連の必要な作業のことである。その目的は、最小の努力で、最大の成果に到達することにある。

と。

方法を知らない人は、その逆に、最大の努力で最小の成果にすら到達できないんじゃないかと思うのです。それは悲惨なので、方法をもっと大事にしたほうがいいと思うんですよね。

   

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